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   その1 (1999年9月25日 長與 → 篠原)

◆9月21日付けのサロン宛ての「回状」を落手しました。なるほど、こういうコミュニケートの仕方もあったのかと、1年半も「沈黙」してしまった不明を恥じています。

◆最近のプラハの様子はどうですか。今年はたまたま「1989年11月17日」から10周年にあたりますが、プラハの一般市民は、「社会主義時代なんて知らないよ」といった顔つきで、抜け目なく資本主義活動に東奔西走しているのでしょうか。それとも「けだるい安定感がただよっていた」あの時代に、ある種のノスタルジーを感じているのでしょうか (感じるわけがないか)。

◆補完の研究テーマのひとつに、「第一次大戦期の総力戦体制の構築」があがっていますね。チェコ人社会がどの程度「総動員」されたかは、おもしろい議論だと思います。当地のぼくのホスト教授 M. M. ストラーリク氏は、「リベラル派ナショナリスト」とでもいうべき立場の人ですが、チェコスロヴァキア国家形成期について、次のような意味のことを言っていました。

   ――「1918年にはチェコ人社会は、独立国家以外のすべてをすでに持っていた。帝国議会レベルの議員と政治家、官僚と知識人たちの厚い層、裕福な中産階級を中心とした市民社会、組織化されたプロレタリアートと農民層、大学を頂点とした民族語での教育システム(「民族エリート」養成機関)、国民劇場に象徴される民族文化 etc. 独立国家を形成するのに必要なすべてのアイテムがそろっていた。それらすべてについて未熟だったスロヴァキア人が、チェコ人にまともに太刀打ちできるわけがない」

◆最近の歴史書 (すくなくともスロヴァキアの)では、「チェコスロヴァキアはチェコ人とスロヴァキア人が共同で形成した独立国家」という耳ざわりの良い「模範解答」が幅を効かせていますが、これなども後年の「こうあるべきだった」、「こうあってほしかった」、「こうであったにちがいない」というレベルの議論から導き出された political correctness だと思います。

◆それに関連して、cechoslovakizmus というタームがありますね。これを「チェコスロヴァキア主義」と直訳したのでは、なんのことやらよくわかりません。「内鮮一体」のひそみにならって、「チェ・スロ一体主義」とでも訳せば、すこしは具体的なイメージが沸いてくるのではないかと思います。これについても(スロヴァキア側では)、「スロヴァキア民族の存在を否定した誤った国家イデオロギー」という断罪がなされていますが、当時の政治的社会的なコンテクストのなかで、過不足なく再検討する必要があると思います。

◆プラハではこれから11月に向けて、「11・17」10周年にちなんだ各種の行事が行われると思われます。10年という歳月は、どんなに美しい理念や記憶も手垢にまみれさせるのに十分な年月ですか、チェコの人びとがそれをどう「歴史化」するのか、政府や政党や市民団体がどのような演出をするのか、興味のあるところです。貴兄の炯眼にうつったところをぜひお聞かせください。

◆まとまらず、上滑りな内容になってしまいました。多謝。カナダのスロヴァキア人社会や民族組織の位相について、いろいろとお伝えしたいことも多いのですが、それらはいずれ次便以降で。お元気で充実した研究生活をおすごしください。



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