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   その2 (篠原 → 長與)

   長與さん、さっそくのお便り、どうもありがとうございます。サロンのメンバーで、私がメイルのアドレスを知るかぎりの人に転送しておきました。あて先のところをみていただくと、誰に転送したかおわかりになると思います。

   さて、当地に来てからそろそろ一ヶ月がたちますが、ようやくエンジンがかかりはじめたところです。先週、住居が定まったのですが、それまで何をやっていたのかとなると、どうも定かには思い出せません。8ヶ月というのは、短いものなのに、どうも緊張なく時を無駄にしてしまいました。ただ、こういう焦燥感というのは、日々に追われる東京では、ついぞ忘れていたものでした。なんだか懐かしいような気がします(ちょっと病的ですね)。

   89年以後の評価については、まだ目にはしていませんが、身近なところで、報告いたします。先日、フラデッツ・クラーロヴェーで、チェコ歴史家大会(Sjezd ceskych historiku)というのに出席してきました。何でも六年にいっぺんの総大会だそうで、周期だけからするとオリンピックよりすごいものです。前回が93年ですから、89年以後の歴史家たちの総括としては、ちょうど区切りのよいところだったのではないでしょうか。研究動向と政治動向は必ずしも同調しませんが、それでも歴史家をめぐる状況が根本的にかわったことからしてみれば、3年では無理としても、10年たてば、何か新らしい方向なりはでてきてもいい、もしなければ、大会をそのことを考える機会にしなければいけない、と、これは妥当な要求でしょう。

   ぼくと同じ世代の研究者たちの提起したものは、89年以前についての総括のないまま、チェコの「歴史学界obec historiku」は何事もなかったかのように、同業者団体の利益を守っているのではないか、総括がないからこそ、90年以後に主体的な変化がなかったのではないか、というかなり厳しいものです。大会執行部にかつての共産党御用「歴史家」(これは最悪の例で、あの当時はみんなそう だった、なんていう言い訳はちょっと通用しない手合いの人物です)がいることに対して、大会の初日に、抗議の公開書簡が読みあげられたのですが、それがただ組織上の人事の問題だとすれば、あまり言あげする価値のある出来事だとは思われません。ただ、上のような問題関心と結びついて提出されていたのが、ぼくには印象的でした。

   チェコの歴史家たちはマチツァ・スロヴェンスカーやましてやトゥジマンとは違うんだ、というのは、どうもあやしくなってきました。ヤロスラフ・パーネクといえば、近世史の専門家としてかなり精力的で有名な人物ですが、アカデミーの歴史学研究所所長となって、大会の基調報告をしたこの人の歴史把握は、そうとうなものです。まず、現代のチェコのメディアは、「ズデーテン・ドイツ系」の政治勢力の影響下にあって、有力な多くの新聞・雑誌の経営は「ドイツ人の手」に握られている。このなかで、チェコ国民史についての、「非歴史的」で、「破壊的」destruktivni な見解が表明されるようになってきた。もちろん、ここで念頭におかれているのは、現代史を中心にした最近の歴史研究の空白を埋める作業のことです。「国民の形成は、長い目でみれば、人類史を多様で豊かなものにしてきた。その発展は、人類史に積極的な意味をなす。さらに、その国民の構成員に、しっかりとした故郷を保証し、自信を与える。歴史家の仕事は、国民史の最良の伝統、人間的に、倫理的に立派で、人々の模範となるような国民史上の英雄たちと、人々がアイデンティファイできるように歴史を語ることである」。まあ、抄訳です。彼の基調報告の梗概は、最新のCCHに出ています。

   二日目、ぼくはヤン・クシェン教授が主宰する「現代史」のセッションに出席したのですが、報告の質の高さに比して、聴衆の感情的で、粗暴な反応に驚きました。午前中の報告は、現代史の空白として、プロテクトラートにおけるコラボの問題や、ユダヤ人問題、それからもちろん、ドイツ人の追放問題もありました。どれも、非常に冷静で、綱領的なマニフェストはないものの、この間地道な研究が進んでいることを思わせるものでした。ところが、聴衆からは、ドイツ人追放問題をチェコで研究するのは、Wehrwolf の犯罪について、ドイツ人が研究してからだ!、とか、何で、私たちばかりが自己に批判的な研究をしなければならないんだ!、とか、どれもどこかで聞いたようないいがかりばかりです。日本でも当のドイツでも、スロヴァキアでも、みな、「ワタシタチバカリガ、フトウニワルモノニサレルケレド」、「モット、ミンナ、ジブンニ、ホコリヲモトウヨ」というメッセージを聞くことができますが、お互いに交流はあまりないはずなのに、実にその反応の型、語りの形が似ていることに驚かされます。

   こういう粗暴な反応と、もっと少し洗練されたパーネクのテーゼは、通じ合うものがあると思います。いつからそうなったのか、「うまくいっていた」はずの、チェコにはずいぶんフラストレーションがたまっているようです。こういう歴史研究に対する強迫が、若い人たちに、「過去への回帰」あるいは「過去との連続」ととらえられるのは、実にもっともなことだでしょう。

   ストラーリクさんのテーゼですが、たぶん、チェコの歴史家たちのテーゼと呼応しあっていると思います(チェコ人はそれを自慢しますね。もうちょっと進めると、第一共和国での「スロヴァキア人」に対する先達、教師の態度になります)。

   第一次大戦の場合、総力戦体制は、帝国の崩壊を促した側面からより、むしろ、国家形成の条件となった出発点と考えてみたらどうかなあ、と思います。ハプスブルク帝国の経済の過半をささえていたはずのチェコについて、戦時下にどういう生活があり、どういう世論動向の変化があったのか、それを論じた論考は本当に少ないのです。

   日本統治下ではじめて朝鮮の国民形成は進んだのだ、といえば、ちょっとケレンですが、植民地支配下で、「被抑圧者」の主体を「民族」とすることには問題があるという予感があります。日本の植民地支配を「朝鮮人の苦難」として語ると何か重大なものが抜け落ちるような気がします。チェコスロヴァキアを「チェコ人」と「スロヴァキア人」の共通国家とするのは、やっぱり無理があると思います。ここで社会構造の違いをわきにおいて、対等な二つの主体が連合を結んだ、というのも神話なら、「スロヴァキア人」が「チェコ人」にしてやられた、というのも反神話かもしれません。もちろん、「チェコ人」が「スロヴァキア人」にほどこしてやった、という類の神話も存在します。ここは微妙でむずかしく、場合によっては、人の神経を逆撫でしかねないような物言いになるかもしれないですね。

   プラハは毎年訪れているはずなのですが、いざ、暮らそうとしてみると、以前に長期に滞在したころにくらべて、制度のしくみや、物の値段ばかりでなく、人の生活感覚のようなものも激変しているのがわかります。ずいぶんとあわただしい大都会になりました。

   今日はずいぶんとりとめもないことを書きました。次にはもっと冷静なレポートをしたいと思います。どうも、私の書くことは字数の割には内容希薄でいけません。

   篠原琢拝



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