その13(篠原 → 長與)
拝復
例によってお返事が遅くなって申し訳ありません。プラハは十日ばかり前に冬らしい日々が続いて、ヴルタヴァも凍りつきましたが、またこのところぞろ暖かい日が続きます。ぼくは、寒い冬のほうが調子がいいようです。
戦時中のプロパガンダ映画のお話、興味深く拝読いたしました。チェコでは、Narodni filmovy archiv という機関がドイツ占領中の「ニュース映画」や、劇映画、「ドキュメンタリ」も保存していて、ときどきテレビなどで断片的に放映されます。昨年の九月、まだ着いたばかりのころに、アカデミー歴史学研究所で、戦時プロパガンダをテーマにしたセミナーがありました。ここでもフィルム・アーカイヴ所有のフィルムが資料として流されたのですが、残念ながら14インチのテレビでよくわかりませんでした。
実は年末と年始の二回、禁をやぶってベルリンに出た、と前信で少々触れましたが、その折に見た大展覧会「ドイツ美術の百年」でも、プロパガンダ・フィルムが取り上げられていました。この大展覧会はベルリン市内六ヶ所で行われていたのですが、主な展示は三ヶ所で、それぞれに「芸術の暴力」、「素材と精神」、「コラージュとモンタージュ」というテーマを掲げて、さらにその中でテーマが立てられています。お勧め通りに見学すると、だいたいクロノロジカルに進むのですが、「芸術の暴力」以外はどの会場にも入り口が複数あって、好きなように見学できます。たしかに「コラージュ」をテーマにした展覧会を教科書を読むように見学するとしたら、ちょっとした皮肉でしょう。展覧会の規模もさることながら、展覧会のコンセプト、展示の方法などにたいへん感心させられました。「20世紀」の「ドイツ美術」を「回顧」するにあたって、主催者の視角、哲学はじつに明瞭であるものの、それを見るものに整然と物語る、あるいは説教するという態度を意識的に回避しながら、見学者と対話するようにできあがっているように思われました。「20世紀」とか、「ドイツ美術」、とか「回顧」ということばにうるさくかぎ括弧をつけたのは、それぞれが持つ物語性を展覧会が拒否しようとしているように感じられたからです。
「芸術の暴力」の一室が、ナチズムの芸術にあてられています。「芸術の暴力」というのは、「ドイツ美術」が20世紀初頭から抱えてきた芸術家の超人性への憧れ、使命感や、第一次世界大戦前後の、芸術によって社会と生活のデザインしようというくわだてを問題にしようという意図のようです。ナチズムの芸術、またはナチズムによる芸術の弾圧(「頽廃芸術」展!)を、この流れに位置づけようとするのは、なかなかあぶない試みかもしれません。ここでは、三枚のスクリーンに、左から、「ミュンヘン一揆の犠牲者を追悼する党の祭典」、「ベルリン・オリンピック(リーフェンシュタール)」、「東部戦線の戦況をつたえるニュース映画」が映しだされています。解説のことばに、芸術による社会の完全な儀礼化といった文句がありましたが、現実がナチ・イデオロギーを基礎とする美学に完全に従属して、この美学が唯一の現実認識の回路になっていることがわかります。もちろん、この美学の中心には「指導者崇拝」が屹立していて、「犠牲心」、「健全な心身」、「英雄」といったアイテムがこれをとりまいています。この文脈にあわないものは現実ではない、現実ではありえないから、「抹消」してしまうんでしょう。
ぼくの母は1937年の生まれで、とくに政治に関心があるわけでもありませんが、「グアム」、「サイパン」と聞くと、新婚旅行やサーフィンよりむしろ「玉砕」の方を連想する世代です。「共和国」からの映像がテレビで流されると、いつもたいへんいやな顔をして、アナウンサーの声の調子から何から、戦争中の日本と同じだよ、と嘆息します。川村湊が金日成体制は天皇制の完成形態だとどこかで書いていましたが、これはもっと一般化できるような気がします。以前、プラハで、「独裁の芸術」という題で、ファシズム、ナチズムとスターリニズムの絵画、大衆芸術、都市計画をならべた展覧会をやっていましたが、全体主義、といったおおざっぱなカテゴリーに全部なげこむより、イデオロギーを表現する形式に注目してみるほうが、比較の方法としては妥当かもしれません。アメリカの「修正主義」の歴史家のあいだでは、ナチスの宣伝映画と戦時中のハリウッドの宣伝映画、さらに現代の CNN の映像を比較して、総力戦体制の問題をとらえなおそうという潮流があるようですが、いかがでしょうか。こういうことをするのは、たいてい「ユダヤ系」の研究者です。総力戦、というと俄然、20世紀めいてきますが、ぼくの関心からいうと起源はもっと前にあるような気がします(起源を探すのもヘンですが)。元旦は、国民劇場でスメタナの「リブシェ」を見てきました。元旦に「リブシェ」を観にいく、というのは、ちょっとこっちの人にいうのは恥ずかしい。「リブシェ」の序曲の冒頭のファンファーレは、大統領の入場とか、国家の式典のはじまりとか、そういうときに演奏されます。ちなみに、ロイヤル・ボックスにはチェコ共和国の大統領旗(大紋章)がかかっていて、開幕前に観客は起立してハベル夫妻を迎えました。さて、最後の幕で、リブシェは神の予言を幻視します。プシェミスル・オタカルの遠征から、フス派戦争、ポジェブラディのイジーまで、チェコ国民の栄光を見るのですが、ああ、そのさきは、霧がかかって、よくわからない、大きな破局が待っている、よく見えないが、大きな厄災が待ち受けている、しかし!、わたしは知っている、チェコ国民は滅びない、チェコ国民は恐怖の地獄を克服するのだ、とリブシェは歌い上げます。そうすると、合唱が、チェコ国民は滅びない、滅びない、滅びなーあい・・・、と劇的に唱和して、幕が降りるわけです。長與さんのスロヴァキアのフィルムと同じで、わかっていても、ちょっとぐっとくるものがあります。こんなオペラを元旦に恒例でやるんですから、チェコ人もあんまり21世紀を迎える準備はできていないようです。ただ、さっきの宣伝映画との関係で考えると、もうこのあたりから表現の手法は練り上げられているのかもしれません。
「ゼマン大尉」は、1960年に入って、ますます快調です。「ゼマン大尉」も中年男になりましたが、むかしの「ロマンスの相手」があらわれたのに、なかなか緊張してぎこちない様子です。せっかくいい雰囲気になりかけると、コンビを組んでいる部下の若い男が急用をもってきて、オジャンです。これもどこかで見た映像ですね。先週は現金輸送車の盗難事件の話でした。このところ、「純粋な」刑事事件が続いているようです。ドキュメンタリーも「古典的犯罪の終焉」という題で、むかしの「泥棒」の職人気質を回想しておりました。今週は「社会主義の破壊工作」を進めるベルリンの西側情報組織との対決の話のようです。
オーストリアのハイダーの件は、北米ではどんな風でしょう。これについてはまた次回書きます。
「スロヴァキア・最後のチャンス Slovensko - Posledni sance」という題名は確かにぼくも気になりました。連邦を維持する最後のチャンス、という意味なのか、スロヴァキアが「向こう側」に落っこちない最後のチャンス、という意味なのか、よくわかりませんが、全体の調子からすると、連邦解体でスロヴァキアには「チャンスがなくなった」というような意味ではないと思います。
それではどうぞお元気で。琢拝