[前へ]

補論 チュレンとロンドシの往復書簡について

 本論文でおもに利用したチュレンとロンドシの往復書簡は、オタワ大学モリセット図書館 (University of Ottawa, Morisset Library) 6階のアーカイヴおよび特別コレクション (Archives and Special Collections) 室が所蔵するスロヴァキア・アーカイヴ (the Slovak Archives)に保管されている。

 スロヴァキア・アーカイヴはいくつかのフォンドから構成されているが、この往復書簡はイムリフ・ストラーリク (Imrich Stolarik)フォンドに含まれる。同フォンドは38箱のボックスに収められた大規模な資料群で、1998年暮れにカナダ・スロヴァキア人連盟元議長イムリフ・ストラーリク氏から、オタワ大学に寄贈されたものである。フォンドの内容は、1950年代から80年代までのカナダ・スロヴァキア人連盟の組織文書が中心になっているが、ほかにガブリエル・クルジェル (Gabriel Kurdel) 、アンドレイ・クチェラ (Andrej Kucera)、ユライ・ロンドシ (Juraj Rondos) ら初期の連盟関係者の個人資料が含まれている。これらの個人資料は、上記の人びと(あるいはその遺族)から、連盟の歴史を書くための資料としてイムリフ・ストラーリク氏に委託されたものという。

 1999年12月現在イムリフ・ストラーリク・フォンドは、おおまかに整理された状態でアーカイヴおよび特別コレクション室に保管されている(同フォンドの分類番号は ARCS 98-1)。いずれは他のフォンドと同じく、すべての資料に整理分類番号が付されて、詳細な内容目録が作成される予定だが、それには数年を要すると思われる。

 4箱のボックスに収められたロンドシの個人資料は、多くが公用と私用の書簡類で、合計するとおそらく数千点におよぶ浩瀚なコレクションである。とくに重要と思われるのは、1940年代後半から50年代初頭にかけての時期の、多数のスロヴァキア人政治難民のカナダ渡航斡旋に関連する資料群で、チュレンとロンドシの往復書簡もこのカテゴリーに属するファイルのひとつである(同往復書簡が収められているボックスのタイトルは --- George Rondos j, Box 577 )。

 長與が調査したかぎりでは、この往復書簡のファイルに含まれる書簡は合計 165通である。時期的に見ると、1947年6月6日付のチュレンからロンドシに宛てた手紙にはじまり、1952年3月19日付のチュレンからロンドシに宛てた電報で終わっている。年別では、1947年−39通、1948年−63通、1949年−36通、1950年−17通、1951年−5通、1952年−5通となっている。

 書簡(特記しないかぎり手紙)の差出人と受取人の内訳は、チュレン関係では、チュレンからロンドシ宛−61通、同じく絵はがき−2通、同じく電報−5通、チュレンからロンドシ一家宛−5通、チュレン一家からロンドシ宛−2通、チュレン一家からロンドシ一家宛のクリスマス兼年賀状−1通、チュレン夫人からロンドシ夫人宛−2通、チュレン夫人からロンドシ一家宛−1通、A・モラからチュレン宛−1通、ロンドシ関係では、ロンドシからチュレン宛−42通、ロンドシからチュレン一家宛−5通、ロンドシからチュレン夫人宛−1通、ロンドシからシチェファン・チュレン宛−1通、ロンドシからA・モラ宛−4通、ロンドシからそのほかの第三者宛−2通、J・T・ヘイグからロンドシ宛−7通、A・モラからロンドシ宛−5通、A・モラとチュレン夫人からロンドシ宛−1通、パターソンからロンドシ宛−3通、シチェファン・チュレンからロンドシ宛−2通、そのほかの第三者からロンドシ宛−3通、不明の差出人からロンドシ宛−1通、第三者同士のものとしては、H・L・キンリーサイドからJ・T・ヘイグ宛−3通、ヘイグの弟からJ・T・ヘイグ宛−2通、R・A・ギブソンからJ・T・ヘイグ宛−1通、R・N・マンローからヨゼフ・ヴォレク宛−1通となっている(なおここに挙げた数値は暫定的なもので、整理分類が完了した段階で若干の変動があるかもしれない)。

 書簡の内容から判断するかぎり、上記の時期にチュレンとロンドシのあいだで取り交わされた書簡は、ほぼ漏れなく保存されている印象を受けるが、じゃっかんの疎漏はあるようである。書簡の大部分は手紙だが、上記したように絵はがきとクリスマス兼年賀状合計3通と電報5通も含まれる。また書簡とは別に、ヨゼフ・ヴォレクがカナダ移民局に提出した請願書の下書き2通も、このファイルに属している。

 書簡の大部分はタイプライターで打たれているが、一部の手紙と絵はがきは手書きである。言うまでもないが、チュレンからの手紙はすべてがオリジナルだが、ロンドシの手紙はおそらくカーボン紙に重ね打ちして取られたコピーである。第三者からの手紙の一部は、わざわざタイプライターで打ち直してコピーが作成されている。チュレンの手紙は封筒から取り出された状態で、航空便用の薄い便箋のみがほぼ時代順に保存されていて、ロンドシの几帳面な性格を物語っている。資料の保存状態はおおむね良好である。

 ほかに、同じロンドシの個人資料に含まれるカロル・シドルとロンドシの往復書簡のファイル(およそ38点の資料群)のなかにも、チュレンと家族が関係する絵はがき7通が見いだされた。またこの往復書簡中にもチュレンについての言及が散見される。

 チュレンの手紙は標準スロヴァキア語で書かれている。筆が立つジャーナリストとして有名だった彼のものだけあって、巧みな語り口、豊かな表現力、そして流れるような饒舌によって、私信とは言え、それ自体で面白い読み物になっている。いっぽうロンドシの手紙のほうは、彼自身が告白しているように「ブロークンなスロヴァキア語」(1947年6月23日付のチュレン宛の手紙)で書かれている。文体は素朴で、綴り字規則の誤りも多く、語彙の面でも、彼の出身地であるスロヴァキア東部ゼムプリーン県の方言が散見される。しかし彼の人柄を反映して、内容には誠実さと強靱な意志が滲み出ていて、やはりひじょうに多弁である。

 往復書簡のなかでチュレンとロンドシは、最後までおたがいを丁寧さを表現する人称代名詞 (vy) を使って呼んでいる。これは両者が親しい間柄ではあっても、つねにある種の心理的な距離を保っていたことを暗示している。

 往復書簡のメイン・ストーリーは、本論文で再構成したようにチュレンのカナダ渡航をめぐる紆余曲折である。そのほかに、おたがいの近況、友人や知人の動向、ヨーロッパとスロヴァキア国内の情勢へのコメントなどが折にふれて披瀝されている。チュレンとロンドシの伝記上の新事実だけでなく、1940年代後半という激動期のヨーロッパと北米大陸のナショナリスト派スロヴァキア人グループの内部動向について、多くの生々しい証言を得ることができる。

 合計 165通の書簡のうち、1949年7月チュレンがカナダに到着するまでのものが 123通で、その後は両者のあいだの文通はさほど頻繁ではなくなる。すでに述べたように、1952年3月19日付のチュレンからロンドシに宛てた電報が最後になっているが、モントリオールから送られたこの電報は、チュレンの転居にともなうウィニペグ到着の日時を知らせる内容である。


[前へ]