カナダにおけるチュレンの新しい生活がはじまったところで、本論文はいちおう大団円を迎えたことになる。しかし北米大陸におけるチュレンのその後の人生は、さらなる波瀾に満ちていて、ハッピーエンドで終わったとは言いがたい。
この後のチュレンの人生の足取りを簡単にまとめておこう。1949年8月『カナダのスロヴァキア人』紙編集部で補助編集者という職務を得た彼は、同紙編集部のウィニペグ移転にともなって、1952年3月モントリオールから同市に転居し、同時に補助編集者から編集者に昇格した。しかしチュレンは結局この職場に満足できず、1956年7月辞表を提出して8月アメリカ合衆国に入国し、急死した旧知の歴史家フランチシェク・フルショウスキーのあとを受けて、9月オハイオ州クリーヴランドのスロヴァキア研究所の所長に就任した。
この頃から在米スロヴァキア人移民組織の指導メンバーたちとの人間関係がこじれて(この問題をテーマにしたのが、1961年ニューヨークで自主出版された彼の謄写版刷りの著作『偽りの伝説と憎しみの心に囚われて』)、そのために1958年9月スロヴァキア研究所を解雇された。その後は生計を維持するために、クリーヴランドのナッツ会社のオートメーション包装機係、マイアミの映画館の場内案内係、ピッツバーグのスラーヴィア印刷所の職工、ニューヨークの高層アパートのエレベーター係や家屋管理人など、アメリカ社会の底辺で単純労働に従事しながら執筆活動を続けたが、1964年4月7日ニューヨーク大学医療センターで病気のために死去した(享年60歳)。「チュレン/コンシタンチーン/スロヴァキア人歴史家/そして著作家/1904年生−1964年没」という墓碑銘が刻まれた彼の質素な墓は、ニュージャージー州パサイックの聖母マリア・スロヴァキア人墓地にひっそりと立っている。
1947年6月から1949年7月までのチュレンのカナダ渡航プロセスを再構成することによって、いくつかの所見を引き出すことができる。
まずここで明らかになるのは、第二次世界大戦後のスロヴァキア人政治難民(DP)のヨーロッパから北米大陸への移住の実態であろう。すでにスロヴァキア国内で著名な民族派ジャーナリストだったチュレンは、亡命者のなかでは「恵まれた」立場にあったと言うべきである。スロヴァキア・ナショナリズムを共有するカナダの移民組織の有力者ロンドシの献身的な助力を得ることができ、ロンドシと上院議員ヘイグの強力な「コネ」を介して、ウィニペグで移民業務を取り仕切っていた地方官僚マンロー、中央で移民問題を管轄する鉱山資源省のキンリーサイド次官にまでストレートに陳情が届くという「特権」を享受することができた。滞在地ローマでも、元ヴァチカン駐在公使で在外スロヴァキア民族評議会議長シドルが強力な後ろ楯になり、イタリア駐在カナダ公使と「懇意」のイタリア人モラ将軍も彼を助けた。そのチュレンでも、健康問題で横やりが入ったという事情もあって、カナダの官僚機構の厚い壁を相手に、神経をすり減らす奔走と待機を2年間も続けなければならなかった。
第二次世界大戦にドイツの同盟国として参戦した独立スロヴァキア国を積極的に支持した民族派ジャーナリストのチュレンは、連合国の一員であったカナダの前ではいわば「脛にきずを持つ」身であり、入国申請をする際にいくつかの「経歴詐称」をしなければならなかった。しかしカナダ当局側もこうした事情を承知していたフシがあり、実際の渡航に際してこの点は大きな障害とはならなかったようである。「反コミュニズム作家」としてのチュレンの立場も、有利な説得材料になったであろう。チュレンの入国ビザ取得を大幅に遅らせた直接の原因が、健康問題にあったことは確かだが、「敵たち」の側から実際に「妨害工作」が行われたかどうかは、即断を許さない問題である。
チュレンにたいする歴史的評価には賛否両論があり、1948年5月スロヴァキア国内で行われた政治裁判における「ナチスの協力者」という政治的断罪から、ナショナリスト系亡命コミュニティーの「スロヴァキア独立国家理念の非妥協的な擁護者」という無条件の賛美まで、極端な振幅が見られる。往復書簡の内容を通して浮かび上がってくるチュレンは、確かに有能で饒舌な民族派ジャーナリストであり、スロヴァキア・ナショナリズムにたいする信念は、状況が激変した第二次世界大戦後も変わっていない。いっぽうで「チェコ人」にたいして示される偏狭で敵対的な姿勢は、ナショナリズムの負の刻印を示しているように見える。渡航問題の進展に一喜一憂するチュレンの姿は、強さも弱さもともに露呈していてきわめて人間的である。
ロンドシの献身ぶりもやはり強い印象を与える。カナダの官僚機構を相手に発揮された彼の強靱な意志と行動力は、尋常のものではない。 --- 「シドル公使に会うと、ほとんどいつも驚嘆をこめてあなたの仕事について話しています。これは静かでささやかな仕事、愛国的情熱の美しい手本として、末ながく残ることでしょう。こんな仕事には、人間の一生のうちでもごくごく稀にしかお目にかかることができません」(1948年12月6日付のチュレンのロンドシ宛の手紙)。こうした称賛と感謝の言葉は、チュレンの手紙の随所に見いだされる。1949年10月末チュレン一家のモントリオールの新居を訪れたシカゴの弟シチェファンも、「あなた〔ロンドシ〕にひじょうに感謝していて、私たち〔チュレン一家〕に一度も会ったことがなく面識もない人間が、どうして私たちのためにかくも誠実に闘って、最後には勝利できるのかわからない」と語ったという(1949年10月31日付のチュレン夫人のロンドシ一家宛の手紙)。
後年、ロンドシは移民の斡旋料としてカナダ政府から金を受けとっていたという噂が、スロヴァキア系移民コミュニティーに流布したことがあったようだが、チュレンはこの噂をユーモアをこめて揶揄し、ロンドシ自身も晩年の回想記事で一蹴している。往復書簡の内容から判断するかぎり、ロンドシの人柄の誠実さと善良さは疑いを入れず、「金のためではなく、スロヴァキアの事柄にたいする愛情から働いた」という彼の言葉は、額面どおりに受けとっていいように見える。しかし同時に彼は警察への情報提供者として、コミュニストの活動の内偵という「汚れ仕事」も引き受けているのである。
チュレンはロンドシ宛の手紙の随所で、カナダ渡航にまつわる顛末を記録に残すことを約束している。しかしカナダに入国してからは短い記事のなかで触れただけで、まとまった記録は残さなかったようである。本論文がチュレンに代わって、この空白をいくらかでも埋めることができたならば、著者の課題はひとまず果たされたと言わなくてはならない。