その6 (1999年10月11日 長與 → 篠原)
篠原さん
◆10月4日付けのプラハからのメール、いつものごとく楽しく拝見しました。なるほど、公安警察ではなく国家保安警察(余談ながら、StVを「秘密警察」などと恐ろしげに訳すのは、歴史家としてフェアーな態度とは言いかねるのでは....)であれば、軍隊と同じ階級制度をとりいれていたはずで、カピターン・ゼマンはやはり「大尉」なのかもしれませんね。ところでこのシリーズ物は時代背景としていつ頃を設定しているのでしょうか。「ミニスカート」の女の子が出てくるなら、1960年代後半のはずですが、粗筋をうかがっていると1950年代のような気もしますし...... なんにしろ気になるシリーズではあります。続報を楽しみにしています。
◆ところで「1945年2月の米軍のプラハ爆撃」のエピソードには興味をそそられますね。詳しくは知りませんが、おそらく本当にあった史実なのでしょうか。ブラチスラヴァも1944年6月16日に米英軍に爆撃されています。もっともこれは限定的な目標(ブラチスラヴァの場合はパトロンカの軍需産業施設でした。プラハだとスミホフあたりの工場地帯でしょうか)にかぎった「戦術爆撃」で、意図的に大火事を起こして市街地を焼け野原にし、敵の抗戦意欲をそぐことをねらった「戦略爆撃」(東京、大阪、ドレスデン、ハンブルク)などとは性格がちがうようです。
◆それにしてもそうした爆撃の際にも、不可避的に一般市民のあいだにも犠牲者は出るはずで(最近の例では NATO 軍の誤爆でアルバニア人難民が多数殺された事件が思い出されます)、身内を「米軍の爆撃」で殺された医師氏の「恨」は、どこに向けられるのでしょうね。日本人式に「戦争だからしかたがなかったんだ」とあきらめたのでしょうか。
◆それに関連して、当地で知り合った亡命スロヴァキア人O氏から聞いた話が思い出されます。この人はノヴェー・ザームキ出身、オタワ大学のスロヴァキア・アーカイヴの資料整理を手伝っていて、いつも笑顔をたやさない愛想のよい好々爺ですが、1950年代初頭にチェコ独国境地帯で軍務についていたときに、「ロザリオで神のご加護を祈りながら」脱走して無事に国境を越えたというドラマチックな経歴の持ち主です。この人が四方山話のなかで、戦争末期にノヴェー・ザームキもやはり米軍に爆撃されたことがあると話してくれました。ご存じのようにこの町は当時ハンガリーに併合されていて(したがってO氏も小学校時代はハンガリー語を習わされたそうです)、交通の要衝でもあったので狙われたのでしょうが、スロヴァキア人とハンガリー人のあいだで米軍の爆撃にたいして反応に違いがあったかどうかをたずねてみたら、両民族ともひとしく爆撃した米軍を罵ったのだそうです。
◆まあ個々人の体験のレベルまで下りていけば、あらゆる位相のことが起こりうるのでしょう。当地のぼくのホスト教官ストラーリク氏のご尊父は、当年91歳でかくしゃくたるもの、記憶も話ぶりもしっかりしていますが、この人は独立スロヴァキア国時代にマルティンの税務署に勤めていて、フリンカ親衛隊員(ガルディスタ)でもあったそうです。スロヴァキア独立で精神的にも物質的にも恩恵をこうむった層(余談ながら、この層はかなり大きかったと思います)に属する人なのですが、1944年夏の「スロヴァキア民族蜂起」の時には、「パルチザン」が彼を探しにきたそうです。たまたま休暇で故郷に帰っていて、「難を逃れた」とかで、そうでなればまちがいなく処刑されていたでしょう。この人にとって44年の蜂起は、「ベネシュとボリシェヴィキに唆された反国家クーデター」以外のものではないでしょう。
◆こんな人物を目の当たりにすると、「ファシストやコラボラントはそれ相当の報いを受けて当然だ」といった荒っぽい言説や、「 SNP はスロヴァキア人民の反ファシズムの意思表示であった」とか、「第二次大戦で戦勝国の側に立つために、ぜひとも必要な行為であった」といった後知恵的な意味づけには、一線を画したくなります。だからといって「スロヴァキア国家体制にたいする武装クーデター」説に無邪気に与する気にもなれませんが..... (まだ臆断の域を出ませんが、私見によればこの事件は、「戦時下で発生した不幸な内戦」と位置づけるのが妥当なように思われます)
◆話が先走ってしまいましたが、カナダにはまだこんな経歴を持った人びとが生き残っています。「リュダーク」亡命集団と呼ばれるこのグループが(家族も含めて総勢2000ー3000人)、戦後にヨーロッパから、「スロヴァキア独立擁護」のイデオロギーを持ち込んできて、40年間「殉教者ヨゼフ・ティソ」、「民族の祝日 ―― 3月14日」を念仏のように唱えつづけました。
◆こうした亡命グループのイデオロギーが、1993年のスロヴァキア共和国成立になにほどかの役割をはたしたのかはきわめて疑問です。(このテーマを調べているという若手政治学徒が、最近わがオタワ大学スロヴァキア講座に数日滞在していきました。ノルウェー人で現在オクスフォード大学でドクター論文を書いているそうですが、スロヴァキア語もかなり達者な好青年でした)。私見によればチェコスロヴァキア解体は、純粋に国内の政治力学の帰結であって、国内からの影響はミニマムのように見えます。ストラーリク氏も1990年にカナダの移民組織の代表団の一員としてスロヴァキアを訪問していて、ある集会の質疑応答のなかで「スロヴァキア独立」について尋ねられ、さすがにリベラルを標榜する学者らしく、「私としてはスロヴァキアは独立すべきだと思うが、その問題を決めるのは国内のスロヴァキア人だ」という模範解答で切り抜けたそうですが、当事者の一人といってもいいその彼からして、亡命イデオロギーの国内への影響は、おそらくなかっただろうと言っています(私見によれば、むしろマイナスに働いた可能性さえあります)。移民組織からの金銭的な援助も多少はあったようですが、そこらあたりを「実証的に」明らかにするには、話がまだ生々しすぎるようです。
◆話が大きく脱線して、まとまりがなくなってしまいましたが、今日はとりあえずこのあたりで。先週末のケベック行きの顛末ですが、紅葉はなかなかに見事でしたが、風が強くて湖面にボートを出せず、桟橋で寒風に耐えながら2時間ほど釣り糸を垂れましたが、二匹目の川カマスとの面会は叶いませんでした。
◆ところでカナダの紅葉について気づいたことをひとつ。当地ではなぜか、わが国のように「全山紅葉」、「全国の山河は紅一色」とはならず、てんでばらばら、見事に紅葉しているのもあれば、まだ緑のままのもあり、はやばやと落葉してしまったのもあり、とにかく雑然としています。なぜこうなるのか不思議に思っているのですが、「カナダでは木々までも個人主義的なので、てんでに自分のペースで紅葉する」というおなじみの「民族キャラクター論」、「おなじカエデでも200種類ぐらいあって、それぞれ紅葉の時期が微妙にちがう」というもっともらしい「科学知識万能論」、さらには「じつは日本の紅葉もたいして違いがないのに、無意識に美化してしまっている」という「まぶたの祖国」論までいろいろあって、どれがほんとうか決めかねています。プラハの紅葉はいかがですか。長與拝