その9(篠原 → 長與)
拝啓
11月8日づけのお便り、どうもありがとうございます。北米大陸をまたにかけて、ご活躍のさまはほんとうにうらやましく思います。ぼくは、来年の四月まで To nase malicherne ceske prostredi に逼塞しなければならないことになっています。何でも旅程どおりに行動しないと、あとから「旅費の返納」を命じられたりするそうです。
オタワの冬はやはり厳しいのでしょうか。プラハでは零度前後の日が続きます。今日、はじめて雪をみました。晴天の澄んだ空が折々に暗くなって、雪がちらちら落ちてきました。空のほうでも、暗くなったり明るくなったりするのが面倒なのか、時には明るいまま雪が落ちてきました。ぼくは寒いのは比較的へいきなほうなのですが、先週のように毎日空が重いのは閉口でした。朝、目がさめて、カーテンも開けないうちから天気の具合が予想できるのは、気圧のせいなのでしょうか。それは知りません。
さて、先日のお便りを中途半端にしたまま、「その後十年」の日を迎えてしまいました。系統立てて追跡しているわけではありませんが、メディア全体としては、「その後十年」を論じる論調は比較的低調だといっていいと思います。まず、「十一月」の意義は救うものの、それ以後の展開についての懐疑は隠さない、というのが、全体の基調です。そこには二つのヴァリエーションがあって、まず、「十一月」の意義を強調することで、その後の展開に対する批判的な態度を際立たせる、という態度があります。『文学新聞』の今週号には「その後十年」を論じた論説がいくつか掲載されました。Jakub Patocka という人の論説は、ことを単純化しているようで、ちょっとうがった面白い見方をしていました。この論説では、「クラウスとメチアル」は「正常化体制」の継続だ、と言っています。個人と社会のモラルの再生を説いた人々が中心にいた「十一月」が、1990年と1992年の二度の選挙で、二人のポピュリストに横領されてしまったのだ、と言います。自己演出するイメージが正反対であるにもかかわらず、クラウスとメチアルが連邦解体当時から、互いに親近感といってもいいような共感をもっていることは多くの人が気がついていたと思います。この論説によれば、「正常化体制」の本質とは、自己責任と個人の尊厳の放棄と引き換えに、チェコでは消費を、スロヴァキアでは消費に加えてナショナルな価値への没入を約束した点にあるといいます。そうすると、「銭に汚い銭はない」と言い放ったクラウスの初期の成功は、むしろ「正常化体制」の継続であって、その点でスロヴァキアの「正常化体制」を継承したメチアルと本質は同じである、というわけです。まあ、メチアルをそういって責めるのは珍しいことではないでしょうが(長與さんいうところの、アメリカで受ける「ユダヤ系」の言論)、クラウスと並べてみせたところがぼくにはちょっと新鮮でした。この論説は、全体としてはデシデントの敗北責任を問うものになっていて、この基調には「グローバリゼーション」という新自由主義に対する批判と、それに対するオルターナティヴを誰も出さなかったことに対する苛立ちがあります。コソヴォでの一連の事態を見ていても、何より「ヒノマル・キミガヨ」をめぐる日本の動向を見ていても、ナショナリズムというのは、「グローバリゼーション」の積極的な補完になっているのは確かだろうと思います。だから、クラウスとメチアルはヤヌスの双貌だと、思いつきでなく言える可能性があるのではないかなあ、と感想を持った次第です。この論説でぼくに物足りないと思われるのは、それに対置されるのがマサリクや、その衣鉢を継ごうと意識しているハヴェルのヒューマニズムである点です。ハヴェルのヒューマニズムは、いとも簡単にバルカンへの介入を支えましたし、何よりも「西」で心地よく消費されているではないだろうか、と少々僻目で見たくなりました。ハヴェルの記念演説も、当事者ですからそれは自信に満ちた顔をしなければいけませんが、コミュニズムからの自由より、自由の構築に力点をおいている点で、もちろん、この系譜に属します。オルターナティヴの構想こそ漠としていますが、ベルリンやプラハで、ゴルバチョフ氏がさかんに繰り返していたのもこの点でした。世界は当時、自分たちが決定を下したときにのぞんだいたものにはなっていない、といいながら、スーパーパワーのアメリカとそのマネタリズムを批判するのが最近のゴルバチョフ氏ですが、いかんせん、ベルリンでもプラハでも、ゴルバチョフ氏だけは、敗者、それも二重の敗者として迎えられているようです。
さて、もう一つのヴァリエーションは、「十一月」の意義を強調することで、その後の展開を免罪する、ないしはその後の展開の負の部分に覆いをする、といった体のものです。こちらは、一般的に考えられそうな「十一月」の伝説化が、その極北にあります。ゼマン大尉を批判する人たちの語りの形は、だいたいこれに属しますね。Mlada Fronta DNES というのは、断然発行部数の多い新聞ですが、17日の一面は、世論調査の結果を受けて、「自由はあたりまえのこと、でも安定は懐かしい」という見出しをかかげました。Lidove Noviny は、同じような世論調査の結果に対して、「十年後の今、チェコ人は民主主義を信じる―公生活のあり方に不満をもちながらも、市民の個人的な幸福感は89年11月直後より大きい」という見出しを掲げています。こちらは、「十一月」評価を確認する印判をおすように、特集の最後を色刷りの活字で Dnes proste mame svobodu と結びました。
政治評論誌「レスペクト」は、「チェコ民主主義の神話」という特集を組んでいます。「十一月」特集は、次号にまわすつもりなのか、この特集は第一共和国の「民主主義」を特集しています。数年前まであたりまえのように「マサリクの共和国」に自分たちを結び付けていたチェコ人はたいそう自信をなくしてしまったようです。これは、第一共和国の民主主義に対して、もちろん、現在、自分たちが置かれている状況を念頭におきながら、なるべく公平な決算をはかろうという記事ですが、基本は、なぜあの時できたことが、今度はできなかったのか、ということにつきます。
さて、「現在の状況」に対して、世論がそうとう多極化しているにもかかわらず、「十一月」の評価については一定の合意を見ていることに、問題はないのでしょうか。かつての共産党機関紙で、いまは独立して批判的な論陣をはっている Pravo はもちろん、ボヘミア・モラヴィア共産党も含めて、「十一月」という出発点を評価することでは、だいたいの一致をみているように思えます。もちろん、「Maticni ulice と人種主義は、社会政策の問題デハナァーイ、シホンシュギ社会のゼンパンテキ危機状況のあらわれデアール、白と黒(もちろん肌の色です)よ、連帯セヨォー」という「トロツキスト」のデモも「建国記念日」にはありました(ちなみにメディアではアナーキストといわれています)。共産党強硬派 No.1 だった Miroslav Stepan が率いるチェコスロヴァキア共産主義者党という団体も昨日は集会を持ちました。それでも、この人たちがとりあえず公論の周縁に押しやられているというのは、まあ間違えのない事実だろうと思います。
CT1の「あのとき」というドキュメンタリ番組は、なかなか見ごたえがありました。これは、11月17日から、ハヴェルの大統領就任までの動きをドキュメンタリ映像とインタヴューで再構成して、何が起こったのか、冷静に捉えようとした好番組だったと思います。音楽やモンタージュによる「英雄化」は、皆無ではないにしても、最小限でした。一日一日を丹念に、交渉の現場なども複数のインタヴューで再現しながら追っていくのは手堅い手法だと思います。ここでは共産党指導部のなかで、アダメツをはじめとする改革派がかなり断固たる意志をもっていたこともよく語られていました。ちなみに旧共産党幹部で番組に出てきたのはヤケシュとかシュチェパーン、ロレンツという「悪役」ばかりで、どういうわけか反対派が高く評価したアダメツやチャルファはインタヴューに出てきませんでした。「外のデモ」、共産党指導部「内部」、反対派のシノプスのようなつながり、「市民フォールム」と政府指導部との協議の動向、地方、工場労働者そしてスロヴァキアの VPN など、各現場がかなりバランスよく描かれていたと思います。ただ、スロヴァキアの運動を語ったのはヤーン・ブダイとフョードル・ガール、P. ザヤツ(?)だけですから、長與さんにしてみれば、大変な偏向番組かもしれません。
さて、「その後十年」は、比較的、冷静に記念されたと思うのですが、もとの問題、そして「ゼマン大尉」に帰って考えてみると、社会が多極化しているにもかかわらず、そして「その後十年」に対する幻滅が一部ではなはだしいにもかかわらず、「十一月」について一致をみている、あるいは一致をみているかのような様子は今後はなはだ危険な神話を生むような予感がします。たとえば、「十一月」のKGBプラス StB のシナリオないし陰謀説があります。前もって、反対派とコミュニストの間には合意ができあがっていて、モスクワがそれを後押しした、11月17日以前に、コミュニストは隠し財産をすべて安全なところに避難させた、というものです。これは例の17日デモの学生死亡のデマを唯一の根拠としていますが、公平にみて、事実無根でしょう。ただし、この手のうわさは、「アウシュヴィッツはなかった」説と同じような構図で根強く残りつづけると思います。そして、機能としては、ナショナリストのみならず、シュチェパーン型の連中の支持者たちの存在根拠になりうるでしょう。「十一月」をゼロ点にしてはいけないのではないか、というのがぼくの考えです。どんなに公平に描いても、ゼロ点としての位置が与えられているかぎり、「十一月」はやはり神話です。
昨日、Narodni trida で、かつての学生デモをしのぶデモがありました。久しぶりに警官隊よりデモ隊のほうが多いデモを見物しました。デモ、というより、提灯行列のようで、参加者も2000から3000といったところでしょうか。一列15人ばかりのしまりのない行列がぞろぞろと20分ばかり続きました。参加者は圧倒的に学生、中・高校生です。「あのとき」には、まだ昂揚を感じるにはいたらない年齢だったのではないでしょうか。「ああ、うらやましいなぁ、わたしたちはせめて気分を味わおうかな」というような感じです。行列でとめられてしまった市電のなかには、歩くのは億劫な人たちが、あきらめ顔、あきれ顔で座っています。水曜日はハンガリー語の授業が Mustek のそばであるので、たまたま行き合わせましたが、さすがに物見高いぼくも、10分ばかり見物して帰ってしまいました。
現状にどんなに批判的な人も、89年の11月、12月の連帯感、昂揚感、隣の人がみな親切になったような牧歌的な互助精神は懐かしく思い出すようです。このまえの日曜日に学生運動の指導者四人の座談会がありました。テーブルをはさんで、こちらがわにはドキュメンタリー・フィルムの監督、人道的活動団体の専従になった二人、あちらがわには ODS の議員、そして外交官になった二人が座っていました。当時の回想を語る場面は、彼らの顔の輝きも、エピソードも含めて興味深く、楽しかった。ただ、その後、を語る段の、感情的な言い合いは、いただけなかった。どのインタヴューでも、もちろん、周りの友人知己でも、あの一ヶ月ばかりは、フォークソング風にいえば、「人間を信ジヨウカナ」という気持ちになったときだったようです。これがこの社会の原体験だとしたら、ぼくはそれはそれで貴重なものだと思いますが、「ゼロ点の神話化」にたいする、さっきの考えを放棄するつもりはありません。
なんだか、混乱して長くなりました。最近、ものを考えて展開する習慣がなくなっているので、読みづらい点は、どうぞご容赦ください。お詫びに、というより、もう少し駄弁を続けます。ドキュメンタリーで面白かったところです:
・地方への情宣 ―― なんだか1848年革命のようですが、11月17日以後、プラハの展開は、地方に混乱を引き起こしつつあったので、市民フォールムから三人一組で情宣隊を組織して派遣したという話。たいてい、学生、俳優、大学出のインテリ、の三人組で、学生は出来事の悲劇的な面を訴え、そのうえで俳優は、パテティックに支持を訴え、そして最後にインテリが情勢に望みのあることを冷静に訴える、という役割分担になっていたんだそうです。その様子がフィルムに納められていて、なるほどそのとおりなので笑ってしまいました。
・CKD のデモ隊の到着 ―― CKD の労組の指導者のミレル氏だったか(著名な人です)が語るには、ラテルナ・マギカにいってみると、ベンダと誰とかが洗礼と信仰の話をしていて、自分には、あまりにばかげていてぜんぜん彼らの話していることがわからなかった、とりあえず、明日、自分が CKD の3000人を連れてヴァーツラフ広場に言ってやろう、というと、旦那方は驚いた様子で、相手にもしなかった。翌日、メイデイの行進などで統制のよくとれた CKD 部隊がヴァーツラフ広場にあらわれると、ひときわ目立って、ひときわ大きな歓声があがった。これは別の人物の評価によると、情勢の転換点だったそうです。なんだか、民青とか、学会とかいう迫力があります。
・ドプチェク ―― 死んだ者に残酷だと思うのですが、そしてぼくなど、ドプチェクがメラントリヒの上に現れて、演説をする、感極まったハヴェルが彼に抱きつく、そのシーンを見たときの感動は忘れられないのですが、どうも「善人」で「優柔不断」でありながら、「野心家」であった、と多くの人があきれたように語っていました。問題は、ハヴェルを大統領候補にするときの話で、唯一、ハヴェルをしのぐ有力な候補としてあったドプチェクが、どのような行動をとったのか、ということです。ブダイだったかガールだったかをはじめとして、「ドプチェクが泣いた」という証言が次々に出てきました。それでいながら、「大統領」を諦めることができない、ピトハルトによれば、「チェコスロヴァキアの最後の負の遺産だった」といいます。
・ウルバーネク ―― ヤケシュのあとを次いで出てきた、ウルバーネクは、問題にならない無能な男で、反対派との交渉に出てくると、「書記長」であることを謝っているような話し方をした。
・アダメツ ―― アダメツについての評価は学生運動も、市民フォールム系も非常に高いものでした。はっきりした意志をもって、状況を協力して開こうとしていた、というのです。ただ、レトナーの丘の大集会で、秩序の維持を呼びかけた、そのたった一言で、激しいブーイングをあびて、ゲームの外に転がり出てしまったようです。
・チャルファ ―― モデレータ、教師、というような表現がありました。実務家として何をなすべきか、はっきり知っていた、という評価です。反対派がそれをばかげたことだと思っている時期に、ハヴェルの大統領選出を後押ししたのも、彼だといいます。クラウスは否定していましたけれど。
68年と89年の関係をどう考えるか、というのは、いまだに語られざるテーマですが、89年の参加者の間に、このテーマをめぐって明確な線が引けるのは確かだと思います。このあたりから、「十一月」の脱神話化ができるんではなかろうか、とぼくは思っています。
それにしてもドキュメンタリフィルムを見て思ったのは、ある人のふるまいかた、一瞬の判断で、状況がうごくこともあるのだなあ、というあたりまえのことです。ぼくは司馬遼太郎のような英雄史観はとりませんから、たとえば、アダメツがレトナーの丘で失敗をやらかさなかったとしても、何か歴史が変わる、ということはないと思いますが、情勢のうごくぎりぎりの場面では、ある判断が犠牲を大きくすることもあれば、状況の流れを速くすることも押しとどめることもありうるなあ、と改めて思いました。チェコ・テレビにいまごろ教えられるほうが胡乱なんでしょう。
ほんとうに長々と駄言を弄しました。お聞き捨てください。
また改めてお便りします。いただいたさまざまの(あるときはあやしげな)ホームページの感想も含めまして。琢拝