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第1章 話の発端(1947年6月)

 話は、チュレンが滞在先ローマからカナダのマニトバ州ウィニペグに住むユライ・ロンドシ宛に出した1947年6月6日付の手紙にはじまる。ロンドシ(当時47歳)は、ナショナリスト系移民組織であるカナダ・スロヴァキア人連盟の創立(1932年)以来の主要メンバーの一人で、この当時は同連盟の入植委員会を担当していた。

 この手紙のなかでチュレンは面識のなかったロンドシに、家族そろってカナダに移住したいという意向を伝えた。そこにいたる事情については、チュレン自身に説明してもらうことにしよう。---

ごぞんじのように1945年、ほかの多数の人びとと一緒に、私も自発的な亡命の途に着きました。多くの受難と辛苦をなめたあとで、当地〔ローマ〕に腰を据えました。しかしここでもチェコとボリシェヴィキのスパイたちが落ちつかせてくれず、いつ逮捕されるかもしれない差し迫った危険性がいまだにあるので、私たちはどこか安全な場所にたどり着いて、新しい生活をはじめ、安全に働き暮らしたいと願っています。私にはアメリカに多くの友人と親戚がいますが、この国に移住するのはあいかわらず難しい。約束は連発してくれるのですが、割当ての順番はあいかわらず来ず、おそらく当地からは10年たっても入国できないでしょう。南米には比較的簡単に行けるようですが、それでも一定の時間が必要です。そこでカナダはどうかと思いました。この件でシプリンツ神父に手紙を出しましたら、神父は〔アンドレイ〕クチェラ〔カナダ・スロヴァキア人連盟〕議長に手紙を書いてくれて、議長から私たちに、あなた宛に必要な資料を送るように言づけがありました。私にはアメリカに弟が一人いて〔シカゴに住むシチェファン・チュレンをさす〕、私を身近に呼び寄せようと万策を尽くしていますので、この方法を試みてみたいと思います。

そこであなたにお願いしたいのは、以下についての情報です。

  1. 私たちは三人家族ですが、そちら〔カナダ〕に入国できるでしょうか?
  2. そのために私たちはなにをする必要があるでしょうか?
  3. 私たちのために、そちらでなにをしていただけるでしょうか?

 続いてチュレンは「必要な資料」として、自分と家族の経歴を簡潔に記している。---

1904年2月26日スロヴァキアのスカリツァ郡ブロツケー村生まれ。職業は技術者(パスポートにこう記載されていますから、心配しないでください。私は技術系高校で勉強したことがありますから、これは正確です)。1945年4月以来亡命中。帰国を願わず、また帰国できない理由は、国内のボリシェヴィキ体制にたいする嫌悪。ローマで給付された赤十字パスポートを所持。

アルジベタ・チュレン --- 1906年12月19日ブラチスラヴァ生まれ、妻、やはり赤十字パスポートを所持。

エレナ・エヴァ・チュレン --- 1929年1月22日ブラチスラヴァ生まれ、学生、娘。やはり赤十字パスポートを所持。

私たちは全員無国籍です。

 チュレンの歯切れの悪い口調からも察することができるが、この略歴には不透明な部分がある。つまりチュレンの職業は、どう見ても「技術者」とは言いがたいのである。この時期までの彼の経歴を、事実にそくしてまとめてみると、次のようになるはずである。

―― 1916年スカリツァの古典中等学校(ギムナジウム)に入学、1920年頃ブラチスラヴァの実業中等学校に転校し、1924年に卒業(手紙中にある「技術系高校で勉強した」は、この時期のことをさしていると思われる)。1924−25年クトナー・ホラとトルナヴァで兵役につく。1925−26年ブラチスラヴァの労働者健康保険会社(社会民主党系)で事務職員として働く。1926年フリンカ・スロヴァキア人民党機関紙『スロヴァキア人』の編集部で働く。1927年ブラチスラヴァの中央カトリック事務所で働く。1928−37年チェコスロヴァキア国有鉄道の職員。1938年12月、故郷のスカリツァ郡からスロヴァキア自治議会〔のちに独立スロヴァキア国議会〕の議員に選出。1939年1月ワシントンのチェコ・スロヴァキア駐米公使館付き文化担当官に着任。同年3月の独立スロヴァキア国成立とチェコスロヴァキア解体後、ナショナリスト系移民組織である在米スロヴァキア人連盟の機関紙『スロヴァキアの護り』編集部に移る。同年12月スロヴァキアに帰国。1940年1月、独立スロヴァキア国の内閣付き報道担当官および宣伝局副局長に任命。同年7月ザルツブルク交渉の結果、ドイツの圧力で一時出版と政治活動から身を引く。1940年、民族文化団体マチツァ・スロヴェンスカー委員会メンバー。1941年スロヴァキア民族図書館委員会メンバーになり、1943年同図書館長を務める。同時に聖ヴォイチェフ協会委員会メンバーに選出。――

 こうした経歴を通して浮かび上がってくるのは、大学教育は受けていないが、若い頃からジャーナリストとしての才能を開花させ、1938−39年チェコスロヴァキア政治危機の時期に、スロヴァキア自治を標榜するフリンカ・スロヴァキア人民党の活動に積極的に参加し、1939年3月の独立スロヴァキア国成立を支持して、政府の文化部門の要職につき、1940年夏以後は政治活動から排除されたものの、文化ジャーナリズムの分野で着実に活動した中堅の民族派ジャーナリストとしてのチュレンの姿であろう。

 亡命の理由を「国内のボリシェヴィキ体制にたいする嫌悪」と意味づけることも、半分の事実しか語っていない。この手紙が書かれた1947年6月当時、チェコスロヴァキア国内で共産党がすでに強い権力と影響力を行使していたのは確かだが、複数政党制はいまだに維持されていて、「ボリシェヴィキ体制」が確立していたとは言いがたい状況であった(それには翌48年2月25日の「クーデター」を待たなければならない)。チュレンが現実に恐れていたのは、チェコスロヴァキア当局による「戦争犯罪人狩り」と「人民裁判」であったようである。

 チュレンが身分を「詐称」したり、亡命の理由を「ボリシェヴィキ」だけに押しつけたのは、彼が積極的に支持した独立スロヴァキア国が、第二次世界大戦でドイツの同盟国として戦ったという事情と(言うまでもなくカナダは、当初 ―― 1939年9月10日 ―― から連合国側に立って参戦した)、戦後に形成されつつあった東西対立構造のなかで、カナダが西側陣営の重要な一員であったという事情を考慮した結果だろう。もっとも手紙の調子からも判断できるように、チュレンの経歴をめぐる微妙な事情は、ロンドシも先刻承知していたと思われる。著名な民族派ジャーナリストであったチュレンの、チェコ・スロヴァキア駐米公使館付き文化担当官や独立スロヴァキア国議会の議員という「華麗な前歴」は、スロヴァキア国内はもとより、北米大陸のスロヴァキア系移民コミュニティーでも周知の事実だったからである。

 チュレンからのこうした「厄介な」依頼にたいして、ロンドシはあまり間を置かず、6月23日付で手際のよい親切な返答を寄せた。

家族とともにカナダに渡航したいという意向のお手紙はよく承知しました。3点の質問に答えるように求めておいでですが、それは次のとおりです。

  1. 家族三人でカナダに来ることができるかどうか? --- カナダに来ることはできますが、農業労働者としてです。私にはカナダ移民局に、高い地位を占める懇意の友人たちがいます。彼らと長時間話し合って、あなたの立場を簡単に説明しました。あなたがたいへんに学識があることと国外に放逐された理由を、友人として率直に打ち明けました。またカナダに入国できたら、あなたがなにを考えているかを伝えました。彼らが請け合ったところでは、カナダに来たらあなたは自由の身で、あとは能力次第だそうです。でもカナダに入国したかったら、それもできるだけ早くそうしたかったら、家族と一緒に農業労働者として登録されなければなりません。あとのことは心配しないでください。カナダはあなたのような人材を必要としています。当地ではみな自由で、全員が自分の将来にたいして自分で責任を負っているのです。
  2. そのためになにをする必要があるか? --- あなたはなにもする必要はありません。私が善良なスロヴァキア人農場主を見つけて、その人物がカナダ移民局に請願書を提出します。あなたと家族のカナダ入国が許可されるように希望していて、自分の地所に、あなたがた全員のための仕事と住居を確保しているという内容の請願書です。
  3. あなたがたのために、なにをしてあげることができるか? --- 1と2で説明したことです。あなたの同意と神のご加護を得て、私は仕事を開始しました。私たちのはじめた仕事が、あなたと家族のために私が提供した情報どおりに、上首尾に終わるように願っています。〔移民局の〕責任者が語ったところでは、あなたがたがカナダに入国できるまでに、3カ月から遅くとも6カ月かかるそうです。


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