ヨーロッパにおける第二次世界大戦が最終段階を迎えようとしていた1945年3月末、開始されたソビエト赤軍の新たな攻勢を逃れて、独立スロヴァキア国〔正式名称はスロヴァキア共和国〕の首都ブラチスラヴァから一団の人びとが疎開の途についた。ヨゼフ・ティソ大統領をはじめとする同国の政府関係者と積極的支持者たちのグループである。彼らはスロヴァキア西部の町ホリーチとスカリツァにしばらく滞在してから、4月はじめにホドニーンを経て、当時まだ第三ドイツ帝国領だったオーストリアに入り、リンツの南方にある小さな町クレムスミュンスターにたどり着いた。そのなかに民族派ジャーナリストであるコンシタンチーン・チュレン(当時41歳)と、家族(妻と16歳の娘)の姿も混じっていた。
第二次世界大戦の終結とともに、5月8日クレムスミュンスターのスロヴァキア政府関係者たちは、西方から進駐してきたアメリカ軍に降伏した。当初は丁重に扱われたが、5月19日シチェファン・ティソ首相など4人の政府閣僚が、米軍対敵諜報部隊(CIC)に連行された。さらに6月7日、チュレンを含む15人の人びとが「ナチスの協力者」として連行された。彼らは1945年9月までポイアーバッハ、それ以後翌46年3月まではグラーゼンバッハの米軍収容所に拘留された。
1946年3月、妻の尽力によって収容所から釈放されたチュレンは、オーストリア西部の町リート・イム・インクライスで家族と再会したが、チェコスロヴァキア当局の「戦争犯罪人狩り」を恐れて、4月末ミュンヘンに移った。しかしここでも身辺に危険を感じたので、8月下旬ふたたびオーストリアに戻り、9月20日、米軍対敵諜報部隊の友人の助けを借りて、彼の車に身をひそめてイタリアに越境した。翌21日無事に目的地ローマに着き、さきに到着していた家族とふたたび合流することができた。
この街でチュレンは、旧知の元独立スロヴァキア国ヴァチカン駐在公使カロル・シドルの庇護のもとで、ジャーナリストとしての仕事を再開し、おもにスロヴァキア国内から送られてくる新聞雑誌をニュースソースにして、アメリカ合衆国やカナダのナショナリスト系スロヴァキア語新聞に記事や論説を寄稿しはじめた。同時にさまざまな縁故をたどって、最終的な亡命先を決める仕事に取りかかった。
本論文は、オタワ大学のスロヴァキア・アーカイヴが所蔵するコンシタンチーン・チュレンとユライ・ロンドシの未公刊の往復書簡をおもな資料として、1947年6月から1949年7月まで、2年におよぶチュレンのカナダ渡航にまつわる長く錯綜したプロセスを、資料にそくして再構成することを課題とする(チュレンとロンドシの往復書簡については、論末の補論を参照)。