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第2章 身元引受け人ヴォレク(1947年7月−10月)

 まずは順調なスタートと言わなければならないだろう。この返答を受けとったチュレンはたいへんに喜んだ。さらにロンドシは約束どおり、手早くチュレン一家の身元引受け人を見つけて、7月9日付の続便でこう知らせてきた。 ---

トルナヴァ〔スロヴァキア西部の町〕出身のヨゼフ・ヴォレクという名前の同胞が、あなたと家族を農場の仕事のために必要としているという請願書を提出しました。さらに彼はカナダ移民局にも請願書を出しましたが、そのコピーを同封して送ります。ですから安心してください。そちら〔ローマ〕でカナダ移民局〔の出先機関〕があなたを個人的に訪問するか、それともどこに出頭すべきか書面で通知してくるでしょう。

 ここで言及されている「カナダ移民局への請願書」については、チュレンとロンドシの往復書簡のファイルのなかに、下書きと思われるものが残されている。同じ書式の書類(表裏一枚)が2通保存されており、1通はコンシタンチーン・チュレンと妻アルジベタ、もう1通は娘エレナ・エヴァ・チュレンのためのもので、いずれも末尾に「マニトバ州ローズウッド、1947年7月4日、ヨゼフ・ヴォレク」と記入されている。

 書類の表面上欄には、「この書式は鉱山資源省移民局によって準備され、移民のカナダ入国を申請する者が使用する」という表題が印刷されている。書類の内容は「申請者」と「移民予定者」の2項目に大別され、「申請者」(この書類の場合はヨゼフ・ヴォレク)の項目には、氏名・住所・カナダ滞在年数・入国した港名と年月日と入国の際に利用した船名・入国の際に申請した氏名の正確な綴り・出生国・年齢・国籍・既婚独身寡婦離婚の別・職業を記入する欄がある。さらに申請者が農場主か自営業者の場合は「財産所有・全資産・商売の種類・純収入を含む詳細」を、被雇用者の場合は「雇用期間・雇用者の氏名と住所・地位の種類と期限・現在の所得」を記入することが求められた。

 いっぽう「移民予定者」の項目には、予定者の氏名・年齢・既婚独身寡婦離婚の別・申請者との関係・出生国と場所と年月日・国籍を記入する欄が設けられている。チュレンの場合、「申請者との関係」は「友人」と書かれ(言うまでもないが、チュレンとヴォレクのあいだに面識はない)、出生国と国籍欄には「チェコスロヴァキア共和国(CSR)」と記入されている(チュレンはロンドシ宛の最初の手紙で「無国籍」と書いていたはずである)。

 書類の裏面は設問に答える形式を取っているが、「母国での職業」欄にはチュレンが知らせてきた「技術者」ではなく「農場主」と、「カナダで予定している職業」欄には「農場で働く」と記入されている。すでに言及したように、これはチュレン一家のカナダ渡航をスムーズにするための「詐称」であった。

 なにより問題だったのは、「当該の移民は、カナダかアメリカ合衆国にすでに居住したことがあるか。ある場合は、期間はいつで住所はどこか」という設問である。書類にはあっさり「ノー」と記入されているが、これは明らかに事実に反する。チュレンはすでに3度にわたってアメリカに滞在した経験がある。最初は幼児の時に(1905−09年)出稼ぎ移民であった両親とともに、2回目は1935年12月から翌36年7月まで民族文化団体マチツァ・スロヴェンスカーのアメリカ在住同胞訪問団の一員として、そして3回目は、すでに触れたように1939年1月から12月まで滞在して、当初は駐米公使館付き文化担当官を、のちに在米スロヴァキア人連盟機関紙『スロヴァキアの護り』の編集者を務めている。あとの2回は「農場主」に似つかわしくない経歴であり、とくに最後の滞在の場合は、1939年3月の独立スロヴァキア国成立とチェコスロヴァキア解体と重なり、スロヴァキア・ナショナリストとしてのチュレンの立場が明瞭に示された時期で、政治的にデリケートな問題を含んでいた。

 実際に請願書に記入したのはヴォレク本人であろうが、彼はロンドシから伝えられた情報をそのまま記入したと思われる。ロンドシはチュレンの滞米歴を承知していたにちがいないが、6月23日付のチュレン宛の手紙で報告されているように、ウィニペグの移民局の有力者たちとの「根まわし」はすでに済んでいたので、この書類をたんなる形式上の手続きと考えていたのかもしれない。

 「上記の移民たちの住居と雇用のために行った準備」という設問にたいしてヴォレクは、「彼らを私たちの農場に受け入れ、完全な扶養と現行賃金による農場での雇用を保障します」と答え、「旅費は前払いされているか」という設問には、「私〔ヴォレク〕が旅費を支払います」と書いているが、チュレン一家がはじめから農場で働く意志がないことは、ヴォレク自身も承知していたはずである。

 ヴォレクが移民局に提出した請願書のコピーが同封された7月9日付のロンドシからの手紙を、チュレンは7月15日に受けとった。彼は8月1日付の返信のなかでこんな不満を漏らしている。 ---

さていまは、関係官庁でこの件の進展を促してくださるようにひたすらお願いします。当地〔ローマ〕には、こうした書類を入手して何ヵ月も待っているのに、事態がまったく進展しないスロヴァキア人がもう何人もいるのです。いちばんおぞましいのは、われわれの困難についておおいに書かれ、難民問題でなにか手を打つ必要があると、何千人の人びとがお喋りして暮らしていることで、この連中が、まるでもう対策を講じて検討を済ませたようなふりをしているあいだに、難民たちは肉体と精神の貧困に蝕まれているのですが、紳士たちは結構な暮らしをしています。とくにアメリカはこの問題におおいに注目していますが、一人の難民も入国させず、可決されるべき法律は棚上げにされて、議会は解散して休暇に入り、再開されるのは1948年〔来年〕1月で、きっと同年夏までこの法律は放っておかれるでしょう。それが可決されたら、1949年か1950年に移住が開始されるかもしれません。でもだれがそれまで我慢できるでしょうか?〔実際にはアメリカの政治難民法は1948年春に可決され、同年10月に移住が開始された〕

お喋りと記事は少なめにして、もっと行動してくれると良いのですが。もっともわれわれのごときちっぽけな凡人が、紳士政治の意地悪にたいしてなにができるでしょうか。

 チュレンの依頼にたいする返事(日付が打たれていないが、内容から判断して8月中旬に書かれたと思われる)のなかで、ロンドシはこう経過報告している。---

進展を促すようにとのことですが、事態は進行中であるとお答えします。ヴォレク氏はすでに移民局に呼び出されて〔3つの質問への回答を〕求められました。 --- 1)本当に520 エーカー〔ヴォレクが移民局に提出した請願書には 560エーカーと記入されている〕の土地の所有者であるという郡役場からの証拠書類。彼は郡役場から自分宛の手紙と、いかなる負債も負っていないという書類によってそれを証明しました。2)どれだけの金額を貯蓄しているかという銀行からの証拠書類も、万事問題なく提出できました。しかし3番目の質問で、どうしてあなたと知りあったかという簡単な来歴を求められました。ヴォレク氏はあなたと一緒に学校に通い、鍛冶屋の職業をともに学んだ農民の息子としてあなたを記憶していると、私たちは答えました。20年前にヴォレク氏がカナダに去ってから、あなたは国に残り、村の鍛冶屋を兼ねながら小さな地所を耕していたことにしました。どうして難民になったのか、民間人として逃げたのか、それとも軍人としてかと訊ねられましたので、軍人ではなく一介の民間人として、コミュニストのテロルを避けるために国から逃げたと答えました。

 それにたいしてチュレンは8月28日付の手紙のなかで、ユーモアをこめて「口裏をあわせる」ことを約束している。---

カナダの役所での審査についての情報に心から感謝します。〔そちらに〕着いたら、職業は鍛冶屋と申告することにしましょう。これはそれほど大きなウソではありません。父が錠前師だったので、私は小さな子供の頃から仕事場に出入りしていました。必要ならふいごを押しましたし、大きなハンマーでも手伝いましたから、この職業に疎いわけではありません。試験はきっとパスするでしょう。

 9月末になってカナダの官僚機構から反応が返ってきた。チュレンの身元引受け人ヴォレクが、ウィニペグの鉱山資源省移民局の局長R・N・マンローから、9月29日付で次のような通知を受けとったのである。---

貴殿の友人コンシタンチーン・チュレン、妻アルジベタ、娘エレナ・エヴァ(イタリア、ヴァチカン市国、カレル〔正しくはカロル〕・シドル方)のカナダ入国許可申請に関連して、定住の準備は満足すべきものであること、および次に必要な手続きは、移民予定者が海外で審査を受けることである旨を通知します。もちろん、これらの準備を完了するためにはじゃっかんの時間が必要でしょう。

 この通知のコピーはロンドシを介してさっそくチュレンに送られたが、それにたいして彼は10月20日付の返事のなかでこう書いている。---

ほぼ3年間の亡命生活中に受けとった手紙のなかで、いちばん喜ばしいものでした。とくに私の見るところ、これは重要な内容で、あなたがたが受けとった手紙〔上述のマンローからの通知をさす〕によれば、そもそも事はすでに処理済みであると判断できます。いま問題なのは、手紙のなかで述べられている『じゃっかんの時間』だけです。

 チュレンは楽観的な口調でこの手紙を結んでいる。---

末筆ながら、これまでのさまざまなご足労に感謝します。あなたにはたいへんなお手数をおかけしましたが、でも私にはそちら〔カナダ〕でほかに頼れる人がいませんでした。いろいろな空約束や安請け合いを受けとりましたが、あなたの取った措置がもっとも現実的でもっとも明確でした。もういちど心からお礼を申します。そちらのお役所仕事がどうなっているか知りませんが、スロヴァキアでは今、ほんの少しが1年も続くようなので、もし役所であの『じゃっかんの時間』が長引くようでしたら、また少し促してください。でもクリスマスにはもう、あなたがたのところに行けると期待しています。


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