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第4章 ヘイグ上院議員(1947年12月)

 チュレンはさらに翌12月14日、ロンドシ宛に海外電報を打った。残念なことにこの電報は往復書簡のファイルのなかに見当たらないが、次に引用する手紙の記述から判断すると、オタワからのカナダ入国許可が海外電報で通知されて、公使館にビザを出す権限が与えられることを求める内容だったと推察できる。それを受けてロンドシは12月15日、クナード汽船会社ウィニペグ支店と移民局をまわったが、かんばしい手応えはなかった。

 そこで彼は、昔からの友人である上院議員ジョン・トマス・ヘイグ(当時70歳)に仲介を依頼することを決心し、ウィニペグ市内にあるヘイグの法律事務所を訪問した。あいにくヘイグ本人は、オタワで開催中の議会に出席していて不在だったが、応対した彼の弟は同日(12月15日)付でオタワの兄に、手紙で次のように報告している(この手紙には9月29日付の移民局長マンローからの通知と、12月14日付のチュレンの海外電報のコピーが同封された)。

きょう、あなたの親友ロンドシ氏が事務所に来ました。彼は移民法にもとづいて、目下イタリアにいる友人コンシタンチーン・チュレンと妻と娘の入国を出願しています。 ・・・問題は、わが国がローマに移民審査事務所を持っていないことにあるようです。公使館はあっても特別の権限がないので、彼らにはあきらかに移民許可を出す力がありません。お気づきと思いますが、〔チュレンの〕電報が求めているのは、許可が海外電報で通知されることと、公使館にビザを出す権限が与えられることです。

・・・問題なのは〔カナダ入国〕許可とビザだけのようです。オタワから戻るまえにできるかぎりのことをして、この件を手早く片づけてください。ロンドシ氏はきわめて不安そうです。彼はたくさんの困難を引き受けて、たくさんのお金を使っています。困難を取り除くためのあなたのどんな助力にも、まちがいなく感謝するでしょう。

 ウィニペグからの連絡を受けとったヘイグ上院議員は、移民問題を管轄する鉱山資源省のヒュー・L・キンリーサイド次官に会って、しかるべく「探り」を入れた。ヘイグは12月22日付でロンドシ宛に次のように返答している。

ご存じのごとく、私はカナダ上院における野党〔進歩保守党〕リーダーですが、時間をさいて鉱山資源省次官に会いに行きました。移民担当次官も兼任している彼が請け合ったところでは、12月14日から2週間以内に、カナダ入国ビザを給付するために、鉱山資源省の係官の一人をローマに派遣するか、カナダ公使館にビザを発行する権限が与えられるでしょう。

次官は私の個人的な友人なので、彼が的確にこの件を処理すると確信しています。私は移民局に、次官にたいする職責についての手紙を送りますが、その次官の言によれば、万事は2週間以内に明らかになるので、あなたの友人〔チュレンをさす〕は1月1日までにビザを取得できるでしょう。

 ロンドシは同じ日にヘイグのこの手紙のコピーを添えて、モラ将軍に英文の返事をしたためた。

詳しい情報が書かれた12月13日付のあなたの手紙を受けとって、ほんとうに嬉しく思いました。私は同時にチュレン氏の海外電報も落手して、ただちにオタワの移民担当者に必要な措置を取りました。

カナダの移民当局が緊急措置を取ることを確信していただくために、カナダ上院の野党リーダーであるジョン・T・ヘイグ氏の手紙のコピーを同封しますが、それがおのずから説明してくれるでしょう。

カナダにいるチュレン氏の多くのスロヴァキア人の友人が、彼の到着を楽しみにしています。

 この手紙を受けとった時の気持ちを、チュレンは12月31日付のロンドシ宛の返事の巻頭でこう綴っている。

年末に私たちはとても憂鬱でした。もう万事が破綻してしまったように見えました。するとそこに、過ぎ行く年の最後の数時間に、あなたがモラ将軍に送った最新の知らせ〔上述の12月22日付の手紙をさす〕が舞いこみ、ほんとうに私たちをとても喜ばせ、ふたたび新たな希望を注ぎこんでくれました。モラ将軍は昨日こう言いました。 --- 『私は73歳になり、世界中を歩きまわり、多くのことを目撃し体験してきたが、ロンドシ氏が見せているような同胞愛にあふれる友情には、まだ一度もお目にかかったことがない』。人間としてだけでなく、とくにスロヴァキア人として、あなたは誇ってもいいのです。

 そのモラ将軍は12月31日の大晦日に、ロンドシから送られてきたヘイグ上院議員の12月22日付の手紙のコピーを携えて、カナダ公使館に陳情に出向いた。チュレンはロンドシ宛の12月31日付の手紙の追伸で、その顛末を報告している。

将軍がつい今しがた公使館から戻ってきました。彼らは〔ヘイグの〕手紙を読んで、関心を示したようですが、現行の規則によれば、公使館がビザを発行できるのはイタリア国民だけで、外国人はだめです。これまでのところ私たちの件では、なんの指示も受けとっていません。オタワに電報を打って、私たちの件についての以前の〔11月22日付の〕手紙にたいする回答を要求すると、約束してくれました。私たちの赤十字パスポートにも問題があるようで、別のパスポートを取得しなければならないとか。つまりまだまだ多くの困難が待ち構えているようです。将軍がこの件についてあなたに手紙を書いています。公使館は『チュレンと家族にビザを発行せよ』という命令を受けとる必要があります。それがないかぎり、どうしようもありません。

 モラ将軍がロンドシ宛に書いた英文の手紙(12月31日付)も、往復書簡のファイルのなかに見いだされる。

ジョン・T・ヘイグ上院議員からの手紙が同封された12月22日付の親切な手紙に、あつくお礼を申します。

私はただちにカナダ公使館に出向いて、〔二等書記官〕カーター氏に2通の手紙を見せました。彼はあきらかに感動していましたが、不幸なことに彼の言によれば、公使館はすでに、ローマに移民担当官が到着するのを待たずに、ビザを発行する権限を得たとはいえ、それが適用されるのは当面イタリア人だけだとか。公使館はあなたの特別なケースにかんしても、イタリア人以外の移民にかんしても、いかなる似たような指示もさしあたって受けとっていません。

私はデジー公使とも会いましたが、オタワ〔の本省〕が気づいたらただちにベストを尽くすと確約してくれました。たしかに、去る11月〔22日〕に本省宛に書いた手紙にたいして、オタワが海外電報で返答すべきであるという主張を、本日海外電報で伝えると約束してくれたのですから、公使館はベストの善意を示しています。

不幸なことにどの国でも官僚機構がいかに遅いかはわかっていますので、私がお願いしたいのは、この手紙を持参して、公使館が提案したようにただちに海外電報が送られるようにもっと力説して欲しいと、あなたの有力者の友人たちに頼んでくださることです」〔下線は原文のまま〕

 チュレンが手短に触れていたパスポート問題について、モラ将軍は詳しく言及している。

土壇場になってもうひとつ厄介事が持ち上がりました。公使館がこれまで有効と言明していた赤十字パスポートが、最近のいくつかの新たな規定によって、いまや適当とは見なされなくなったのです。国際難民救済機関(IRO)の行政事務官のいくつかの書類で代用する必要があるでしょうが、ことを急がせるように公使館が手助けを約束してくれても、それらを取得するにはたいへんな時間がかかることでしょう。チュレンの場合だけは赤十字パスポートを有効なものとして例外的に受け付けるように、オタワが海外電報で公使館に権限を与えるという言質を取り付けることができないでしょうか。

 当初の見込みでは「入国できるまでに3カ月から遅くとも6カ月」(ロンドシの6月23日付の手紙)のはずだったが、カナダの官僚機構の壁は思いのほか厚かった。ビザ取得をめぐる心労と奔走のなかで1947年は暮れていった。

 ロンドシとの往復書簡から読み取れるように、チュレンはカナダ渡航問題に多くの時間とエネルギーを費やし、その進展に文字どおり一喜一憂していたが、本来のジャーナリストとしての仕事を怠っていたわけではない。

 この時期の彼のおもな仕事は、なんといっても著作『スヴェトプルクに継ぐわれらの第二の首領 --- ヨゼフ・ティソ博士の生涯』の執筆と出版だろう。合計600 ページにおよぶこの大著のテーマである独立スロヴァキア国大統領ティソは、1945年春スロヴァキア政府とともにオーストリアに疎開し(この逃避行にはチュレンも同行した)、第二次世界大戦終了後の5月以後、南バヴァリアの修道院に潜んでいたが(ティソはカトリック神父であった)、同年6月に米軍当局によって逮捕拘留され、10月末チェコスロヴァキア当局に引き渡された。1946年12月から翌47年4月までブラチスラヴァで開かれた「国民裁判」で、ティソは主犯の「戦争犯罪人」として死刑判決を受け、同年4月18日に絞首刑に処されたのである。

 チュレンは寄宿先のシドルの蔵書や文書資料を利用し、またブラチスラヴァ裁判についての新聞報道を同時代的にフォローすることによって、この問題作を執筆した。著作の前半ではティソの生涯が時代背景との関連のなかで記述され、後半はブラチスラヴァ裁判の経過をめぐる記述と分析に当てられている。タイトルそのものが雄弁に物語っているように、チュレンは「戦争犯罪人」として処刑されたティソを、9世紀の大モラヴィア支配者スヴェトプルクに継ぐ「スロヴァキア民族の首領」として描き出し、「スロヴァキア独立国家理念」の具現者として意味づけることによって、彼の弁護論を展開している。このきわめて政治色の強い「聖者伝」は、「〔ティソの処刑によってもたらされた〕痛みと受難のなかから強い確信が、独立したスロヴァキア共和国への確信が生まれた」という「信仰告白」に似た言葉で結ばれている。


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