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第5章 健康診断(1948年1月−4月)

 チュレンのカナダ渡航をめぐる事態は、1948年1月半ばになってやっと進展した。彼のロンドシ宛の1月16日付の手紙にはこう記されている。 ---

つい先ほど〔カナダ〕公使館から電話があって、書類がやっと届いたので、一週間以内に手続きを済ませるそうです。すでに健康診断の日程も知らせてきましたが、それはうまくいくと期待しています。私たちは全員まったく健康と感じているからです。・・・無事にパスしたら、私たちは〔1月〕23日頃にビザを取得できて、それからイギリスかアメリカの〔トランジット・ビザ〕を取るまでにしばらくかかるでしょう。ですから2月末にはカナダかアメリカに到着できるのではないかと考えています。

 この時チュレンは、カナダの入国ビザがもう手の届くところまで来たと思ったことだろう。ところが思いがけない伏兵が待ち受けていた。自信を持ってのぞんだ健康診断で、「問題あり」という診断を下されてしまったのである。たしかにチュレンには22年前にひとつの病歴があった。1926年、当時21歳の彼はブラチスラヴァのフリンカ・スロヴァキア人民党機関紙『スロヴァキア人』の編集部で働いていたが、8月下旬に胸膜炎で病院に担ぎこまれた。2週間ほとんど無意識の状態で生死の境をさまよい、体温が41度まで上がったこともあったが、3カ月の闘病生活のあと、11月末に退院することができた。ヴィソケー・タトリ山地の麓のサナトリウムで1カ月ほど静養し、年末にブラチスラヴァでの日常生活に復帰したのである。

 1月28日チュレン一家は健康診断のために、開設されたばかりのローマ駐在カナダ移民審査事務所に出頭した。そこでの顛末を、彼は同日付の手紙でロンドシにこう報告している。 ---

万事が順調に見えたのですが、私の内臓レントゲン写真で突然引っかかってしまいました。私は22年前に病気になったことがあり、胸膜炎を患いました。その炎症の痕跡がいまでも写真に見えるというのです。その後は一度も発病したことはありませんが、カナダの医師はそれを問題にして、私たちのビザ発行を後日に、それもロンドンの国民健康福祉〔カナダ担当〕局が同意した後に延期したのです。すべての書類を向こうに送って、さいわい先方が同意したらビザをもらえますが、だめだったらどうしようもなく、私たちのカナダ行きは永遠におあずけです。

 チュレンは悲観的な口調で続ける。 ---

まったくこんな事態は予想外でした。万事が順調でした。国際難民救済機関のパスポートも取得しましたし、書類も問題なく、民事審査も同様で、22年も昔の病気がいまになって問題にされ、万事を損なうことになるとは、まったく予想もしていませんでした。妻と娘は健康と認められました。

あなたにとっても私たちにとっても、これは予期しなかった悲報です。あれだけの仕事、あれだけの奔走と出費があって結局これです。どんな健康診断を受けなければならなかったか、想像もつかないでしょう。最初にレントゲン、それから医師の診察、それから血液検査、それからもう一度カナダの医師のまえで、徴兵検査の時よりもっと厳しく。ロンドンでどう決定されるか、ひたすら待つほかありません。さまざまな体験を経た私たちには、もうごくわずかな希望の火花しか残されていません。亡命者にとっては、事がうまく行くよりも失敗することのほうが多いからです。

これからどうしたらいいでしょうか。私たちはまったく途方に暮れていて不幸です。希望の頂きから絶望の奈落にまっさかさまです。

 チュレンの「予期しなかった悲報」を受けとったロンドシは、すぐに返事(2月3日付)を書いて彼を励ました。 ---

・・・あなたの手紙を読んで、私も家族のみなもほんとうに悲しくなりました。でも私は問題全体をよく考えて、事態はまだ好転すると思っています。たくさんの人びとが、あなたが書いているような痕跡を〔肺に〕持っているからです。血液検査が〔あなたが健康であることを〕証明して、ロンドンでは問題を再検討するでしょう。私はまだ、主なる神が万事を好転させてくださると期待しています。どんな回答が返ってくるか、ここしばらくは待っていてください。そして回答の内容をすぐに私に知らせてください。あなた自身が病弱と感じているのでなければ、パスできると思いますし、じきにカナダに向けて出発できるでしょう。

 「3週間以内にまちがいなく来る」(3月3日付のチュレンのロンドシ宛の手紙)、「遅くとも3週間以内に返事を受けとれる」(同じく3月20日頃の手紙)と言われていたが、ロンドンの国民健康福祉カナダ担当局からの回答はなかなか戻ってこなかった。苛立ったチュレンは、3月29日付の手紙のなかでロンドシにこんな不満を漏らしている。 ---

カナダの紳士たちは、私たちをひどく不愉快に非キリスト教的に弄びました。この件でいちばん不愉快なのは、イエスともノーとも言われなかったことです。けっこうな暮らしの役人たちが、哀れな移民を笑いものにしているのです。もしも反ボリシェヴィズムに完全に染まっているのでなければ、こうした教訓のあとでは諦めて彼らの陣営に投降し、『許してください、私はあなたたちに悪いことをしました』と言いたいところです。真実は、しかもひじょうに嘆かわしい真実は、ヒューマニズムや民主主義についておおいに喋りまくっているあの民主主義陣営なるものも、やっていることはひじょうに非キリスト教的で粗暴なので、この点では彼らとボリシェヴィキのあいだにはごくわずかな相違しかないことです。・・・

さてどうしたものか。私たちはみな、役所の冷酷さと官僚機構の愚かさにたいしてはまったく無防備です。あなたは、いちばん身近な家族の一員の義務以上のことをしてくださいました。こんな悪い結果になってしまったことが残念で、胸が痛みます。

 この時期のチュレンの手紙には、ほかにもカナダとアメリカの難民政策にたいする不満、さらには西側民主主義陣営にたいする批判と反感を吐露している部分が見受けられる。「反ボリシェヴィズム」を標榜していた民族派ジャーナリストのチュレンも、同時代の左翼知識人たちのエモーショナルな反西側感情と無縁ではなかったのである。それと比較するかたちで、難民受け入れに積極的だったアルゼンチン政府とスペイン政府の態度を称賛する文章も散見される。

 4月になってやっとロンドンからの回答が届いた。結果は残念ながら「ノー」であった。この顛末をロンドシに報告する手紙(4月1日付)のなかで、チュレンは憤懣をぶちまけている。 ---

さてとうとう明確な回答が返ってきました。きょう私たちはカナダ〔移民審査〕事務所に行きましたが、ひじょうに親切に歓迎してくれて、いわく『ちょうどあなたに手紙を書こうとしていたところでした。良いところにいらっしゃいました』。こんな前置きのあとでは、どんな朗報が届いたのかと興味深々でした。長くは待たされませんでした。いわく「『カナダのビザは取得できない』という回答を、私どもの上級官庁から受けとりました」。

べつに驚きませんでした。私たちを相手に演じられたこの長い喜劇のあとでは、これ以外のなにも期待できなかったからです。あなたの仕事は無駄でしたし、私たちの努力も無駄でしたし、クリーヴランドのコイシ修道院長の介入も無駄で役に立たず、なんの助けにもなりませんでした。カナダが必要としているのは、ジョー・ルイス〔当時の有名なアメリカのボクサー〕のようなこぶしを持った人間で、人生であえて一度だけ病気に罹ったような人間ではないのです。あなたの努力と仕事をもったいなく思いますが、しかし半面、ひとつの美しい経験をして、人間としてより豊かになりました。そしてはっきりと看取できるのは、アメリカとイギリスとカナダが、ボリシェヴィズムに反対する国際会議で振りまわしているヒューマニティーとキリスト教の正体で、彼らは、自分たちだけが博愛の天使であるかのように装っているのです。こうした偽善的な言葉を耳にし、粗暴な振る舞いを目にすると、虫酸が走ります。まったく彼らは、コミュニストと同じ穴のムジナです。

さらにチュレンの憤懣の矛先は、仲介の労をとったヘイグ上院議員にも向けられた。 ---

野党リーダーである上院議員なら、それなりの権力があって、言葉にも重みがあるものと思っていました。でもたいしたことはないようです。私もかつてしがない議員だったことがありますが〔チュレンは1938年12月から1945年春まで、スロヴァキア自治議会 --- のちに独立スロヴァキア国議会 --- の議員だった〕、『ゲシュタポに追われた何人かのポーランド人難民がいて、逮捕されたら銃殺される』と陳情したときには、それだけで内務大臣〔アレクサンデル・マフ〕は、ただちに彼らにスロヴァキアのパスポートを発行するように命じて、スロヴァキア国民として国家勤務に配置しました。わが国の大臣は、ひょっとして彼らがかつて病気に罹ったことがないかどうか、レントゲン検査にまわして『肺』を覗きこむような真似はしませんでした。もしよろしければ、『かくも著名な政治家が、こんな些事でさえ重きをなせないのは訝しい』と上院議員におっしゃってください。いや、それはやめておきましょう。歯を食いしばって、失われた時間を惜しみましょう。

まったくこんな体験をした後では、どうしたものかと考えこんでしまいます。選択の余地は多くありません。帰国してボリシェヴィキにこう言うのが、いちばん賢明ではないだろうかとも考えます。 --- 『許してください、私は幻滅しました。西側には民主主義なんてありませんし、ヒューマニティーもキリスト教もなく、安価で絶対的に健康な労働者を必要としている森林があるだけです。それ以上でも以下でもありません。アメリカ人がアフリカから奴隷を運んできた時代から、なにひとつ変わっていません。いまではレントゲンを使って検査するけれど、100年前にはそれがなかっただけの話です』。

 翌2日午前中に、移民審査事務所から同じ内容の通知が書面で届いた。チュレンはこのことをロンドシに手短に報告しつつ、「この件でもうなにかを変更できるとは思えません」(4月2日付)と悲観的な調子で書き送っている。先まわりして付け加えておかなければならないが、カナダ当局の医学上の診断は根拠のないものではなかった。実際チュレンはこの年の8月下旬に喀血して入院した。右の肺に汚点のようなものが発見されたが、ストレプトマイシンとカルシウム注射のおかげで、9月10日に退院することができたのである。


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