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第6章 政治裁判(1948年5月)

  チュレンが健康診断問題に翻弄されていた時期に、チェコスロヴァキア国内で大きな政治変動があった。1948年2月25日、共産党がついに政権を掌握したのである(往復書簡に限って言うと、チュレンもロンドシもこの事件についてはあまり触れていない)。そしてレトリックの上だけのことにせよ、チュレンが「帰国とボリシェヴィキへの投降」という選択肢をほのめかしていた時、国内では彼にたいする政治裁判が準備されていた。

  チュレンにたいする裁判に先立って、スロヴァキア国内に留まっていた彼の末弟ラジスラウ・チュレン〔コンシタンチーンは長男〕を含む一団の人びとの裁判が行われた。ラジスラウは、亡命したナショナリスト政治家フェルディナント・ジュルチャンスキーの率いるスロヴァキア行動委員会の地下活動に参加した容疑で、1947年9月に逮捕されていた。シカゴに住んでいた三男シチェファンは、先に引用した1947年10月15日消印のロンドシ宛の手紙のなかでこう書いていた。---

ブラチスラヴァで古典中等学校(ギムナジウム)の教師をしていた私たちの弟が投獄されたという手紙を、スロヴァキアから受けとりました。生きて戻ってくるとは期待していません。ベネシュ〔チェコスロヴァキア大統領〕の暗殺を図ったという容疑で、多数の人が投獄されたからです。それは彼らを殺害するための口実にほかなりません。ひじょうに多くの人が逮捕されました。かわいそうに彼らは二度と戻ってこないでしょう。

 「ベネシュ大統領の暗殺を図った」云々は、国家保安警察(StB)が意図的に流した虚偽情報であったが、ラジスラウ・チュレンら一団の人びとが「スロヴァキア独立国家理念」を支持して地下組織を作り、当時イタリア(1947年7月以降はアルゼンチン)に亡命中だったジュルチャンスキーと接触して、さまざまな情報を彼に提供していたのは事実だった。

 この「反国家陰謀」事件の中心人物オト・オブフは、当時スロヴァキア国内の第一政党だった民主党の指導者の一人ヤーン・ウルシーニ・チェコスロヴァキア副首相の事務所で、広報担当として働いていた人物だった。オブフは9月下旬に逮捕されたが、国家保安警察はこの事件を利用して10月末ウルシーニ副首相を辞任に追い込み、それをきっかけとしてスロヴァキアは重大な政治危機(11月危機)に陥った。結果的に共産党は民主党の力を弱めて、スロヴァキア政界におけるみずからの地位を強化することに成功したのである。

 共産党の政権掌握後、1948年4月19日から29日までブラチスラヴァで「オト・オブフ一派」の裁判が開かれた。彼らは「反国家陰謀」活動に参加し、「チェコスロヴァキア政府を倒してスロヴァキア共和国を復活させる陰謀に加担した」として、「主犯」オブフは禁固30年、ラジスラウ・チュレンは禁固18年を宣告された。連座させられたかたちのウルシーニ元副首相も、禁固7年を言い渡された。ラジスラウの刑が重かったのは、おそらく兄コンシタンチーンへの見せしめとしての意味も含まれていたと思われる。

 チュレンは5月7日付の手紙でロンドシにこう書いている。 ---

・・・ブラチスラヴァで私の弟が『英米の』スパイとして裁判にかけられ、検事総長は彼にたいして絞首刑を求刑しました。裁判がどうなるか、万事がどう展開するかを、私たちは悩ましく緊張して待ち受けていました。〔結局は禁固〕18年を宣告されましたが、それは被告たちのなかで2番目に重いものです。チェコ人裁判官〔K〕ベドルナは、被告たちに合計して85年を宣告しました。かつてハンガリー時代、丸100 年間にスロヴァキア人たちは〔合計して〕78年ほどを宣告されましたが、今では解放されたと言われているのに、一度でこれだけです。それだけでなく弟は手荒く扱われたので、かわいそうにその後遺症にひどく深刻に悩まされるでしょう。最悪なのは万事が無意味だったことで、ジュルチャンスキーのペテン、無意味な喧伝と宣戦布告、若くて熱狂的だけれども不注意な人びとへの無意味な煽動がなければ、こんな裁判沙汰にならなくてすんだはずです。

 チュレンは5月13日付の手紙のなかでもこう書いている。 ---

国内からは、あいかわらず裁判についてのニュースばかりです。私の弟は『英米の』スパイとしてもう有罪宣告を受けましたが、私はイギリスにもアメリカにも入国することができません。これはすこし奇妙ではありませんか。国内では私を対米協力者として裁判にかけたいようです。世界はなんと混乱していることか。

 チュレン本人にたいする裁判は、ブラチスラヴァの地方裁判所で5月28日と29日に行われた。裁判の様子を報道した当時の国内の新聞記事を、ヴヌクの伝記から孫引きしておこう。 ---

アルトゥル・シプカ博士を議長とするブラチスラヴァの人民法廷は、5月28日に元スロヴァキア議会の議員コンシタンチーン・チュレンを欠席のまま裁判にかけた。起訴状がチュレンの罪として告発したのは、社会的に重要な政治活動家として〔1939年3月の〕チェコスロヴァキア共和国解体に加担したこと、ナチス・ドイツの軍事的政治的利害関係を支持したこと、〔1941年6月の〕ソビエト連邦にたいする宣戦布告と戦争遂行に加担したこと、チェコスロヴァキア共和国復興をめざすスロヴァキア民族の闘いを妨害したこと、ほかの市民たちを犠牲にして富を蓄積したこと〔ユダヤ系市民の資産没収と横領を暗示している〕で、それによってチュレンは、国内での裏切りと対敵協力と〔1944年8−10月スロヴァキア民族〕蜂起にたいする裏切りという犯罪行為を犯した。本裁判の検察官はアルノシト・バラート博士、弁護を担当したのはヴォイチェフ・ヴィチャーニェクである。書面の証言と証拠資料の通読によって、検察官と弁護士の最終陳述による本日の立証手続きは終了した。判決は土曜日〔5月29日〕午前9時に下される。

 さらにヴヌクによると、チュレンは6月2日の日記にこう書いているという。 ---

判決を報じた新聞がある。 --- 『チュレン --- 禁固30年/・・・ブラチスラヴァの人民法廷でシプカ博士の裁判官団は、5月29日土曜日コンシタンチーン・チュレンにたいして判決を言い渡し、彼は欠席のまま禁固30年・市民権剥奪15年・全財産没収を宣告された』。

たったの30年! あれだけの犯罪を私に押しつけたのに、わずかこれだけの刑期。それでも私と弟のラツォ〔ラジスラウの愛称〕は二人で、〔1918年以前の〕ハンガリー時代にすべてのスロヴァキア人が得たのとほとんど同じ刑期を、チェコ人たちから頂戴したことになる。まあ、あの紳士たちはうまくやったわけだ。検察官アルノシト・バラートはニトラ出身のハンガリー人だ。彼の二人の兄弟エレメールとゾルターンは西側に亡命中で、その一人はベネズエラに出発したばかりだ。私を弁護したヴォイタ〔ヴォイチェフの愛称〕・ヴィチャーニェク博士は古い知人だ。どのように私を弁護したのか、ぜひとも知りたいものだ。『イェドノタ(同盟)』紙〔アメリカのナショナリスト系スロヴァキア語新聞のひとつ〕のためにいそいで記事を書いて、そこでちょうど検討しているのは、私の裁判のための裁判官も検察官も、スロヴァキア人が見つからなかったことだ。

 チュレンは6月10日付のロンドシ宛の手紙のなかでも、「私の弟がブラチスラヴァで英米のスパイとして有罪宣告され、私たちは全財産を没収されました・・・」と書いている。ともかくもこの政治裁判は、「帰国とボリシェヴィキへの投降」という選択肢に冷水を浴びせる効果はあったようだ。

 チュレンにたいする政治裁判は、この時期にブラチスラヴァで行われた一連の政治裁判のひとつであった。亡命した民族派知識人たちもあいついで欠席裁判にかけられ、カロル・シドル、フェルディナント・モンドク神父、ヨゼフ・M・キルシバウムがそれぞれ禁固20年、歴史家フランチシェク・フルショウスキーが禁固10年を宣告されている。このグループのなかでは、チュレンの判決がもっとも重かったことは注目にあたいする。


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