その後はチュレンにとってひたすら待機の時が続いた。彼のロンドシ宛の手紙には、次のような文面が散見される。 ---
「カナダ〔移民審査〕事務所はまだなにも言ってきません」(9月6日付)。「役所の事情はわかっているので、〔待たされても〕べつに驚きはしません」(9月18日付)。「やっと呼び出されて、『命令が来たので、ビザを発行します』と言われるのを待っていました。なにも起こらないので、個人的に問い合わせてみました。実際になにかの通知が来たことがわかりましたが、〔移民審査事務所は〕それにちょうど返事を出したところです。もっともどんな返事を出したのかわかりません。気分におうじて、良いようにも悪いようにも解釈することはできます。ひとつだけ確かなことは、まだすこし時間がかかることです。でも私たちはもう忍耐強い待機に慣れてしまいましたから、我慢できるでしょう」(10月9日付)。「最近はなにも特別なことは起こりません。1年前、2年前、そして3年前に待っていたように、いまも待っています。私たちはしだいに、救世主を待っているユダヤ人たちに似てくるようです」(11月16日付)。「去年は、〔今年は〕クリスマスと復活祭〔新年の書き誤りか?〕のお祝いを、書面でなく口頭で述べることになると思っていました。でも計画はうまくいかず、1年後にも・・・クリスマスと新年のお祝いを手紙で述べるはめになりました」(12月6日付)。「これまで当地の〔移民審査〕事務所は、私たちの件では微動だにしません。いつか呼び出されるのをずっと待っていますが、これまでのところ無駄でした。この件がどうなったのか、私たちにはわかりません。〔事態が〕動きだしたようにも見えましたが、でも後でだれかがどこかでブレーキをかけたのです」(12月27日付)。
ロンドシも8月10日頃ヘイグの法律事務所を訪問したとき、冗談めかして「チェコ人コミュニストの妨害工作」をほのめかしていたが、カナダの官僚機構からいっこうに返事が返ってこないことに不安を覚えたチュレンは、彼の入国にたいして「ブレーキ」がかけられているのではないかという疑惑にとらわれはじめる。1949年1月10日付の手紙でチュレンはロンドシにこう書いている。 ---
万事がなぜこうなったかを突きとめると面白いでしょう。あそこで問題だったのは健康ではなく、チェコ人の政治的干渉かなにかだったと思います。
3月29日付の手紙では憶測はすでに確信に変わっている。 ---
〔モラ〕将軍がある時カナダ〔移民審査〕事務所に行って、私たちの件でなにか連絡がないかどうか訊ねました。事務所にいたのはふだんとは別の人たちで、書類を調べはじめたあげく、事が頓挫したのはレントゲン写真のためではなく、なにか別件のせいだと洩らしてくれました。別件とは政治的なことに決まっています。政治的なことだとしたら、チェコ人たちの干渉であったことは明らかです。私がそちらに行くことを、連中が喜ばないのはわかっています。・・・〔スロヴァキア人にとって〕チェコ人以上の敵はいないのが現実だからです。彼らは、できることならスプーン一杯の水のなかでも私たちを溺れさせかねません。
この問題についてはチュレンの伝記作者ヴヌクも、「彼〔チュレン〕の敵たちは〔友人たちよりも〕いっそう執拗に破壊的に働いていたようだ」と記している。しかし「チュレンの敵たち」、すなわちチェコスロヴァキア国家体制を支持するカナダ在住のチェコ人とスロヴァキア人グループ(チェコスロヴァキア国民同盟)、あるいは親共産党系グループの側から、彼のカナダ入国にたいして実際に「妨害工作」が行われたかどうかは、現段階では憶測の域を出ない。
もっともチュレンはこの長い待機の時期に、ひたすら移民審査事務所からの連絡を待って無為に日々を過ごしていたわけではなかった。1948年2月25日チェコスロヴァキア本国における「ボリシェヴィキ体制」確立という事態に直面して、シドルを中心としたナショナリスト派亡命スロヴァキア人グループも活動を活発化させていた。この時期のチュレンは、本来のジャーナリストとしての仕事のほかに、二つの政治活動に加わっていたことが判明している。
第一の活動は、国内向けスロヴァキア語放送への協力である。同年11月16日付のチュレンの手紙には次のようにある。 ---
・・・ヨーロッパで自由スロヴァキア放送が始まりました。毎日2時間放送していますが、まもなく自由ヨーロッパ放送も活動を開始して、この放送では〔チェコ語番組と区別された〕純粋なスロヴァキア語番組が予定されています。ですからスロヴァキアと外の世界のあいだの鉄の障壁は取り壊されて、私たちはまた発言できます。それに関連してたくさんの仕事がありますが、これは喜ばしい仕事です。こうした放送では、わが『カナダのスロヴァキア人』紙〔カナダ・スロヴァキア人連盟の週刊機関紙〕の記事も定期的に引用します。すこしでも新鮮な情報を国内に提供できるように、せめて『カナダのスロヴァキア人』紙の第一面をもっと早く放送するように手配しなければならないでしょう。放送が同胞にどんな影響を与えるか、いまは国内からの反響をひたすら待っているところです。
さらに12月6日付の手紙でもチュレンはこう書いている。 ---
いまは当地でもたくさんの仕事があります。われわれの国内向け放送のための資料を準備しています。この放送があとで完全なものになるように願っています。いまは毎日半時間ですが、一人の人間にとってはかなりの仕事です。ひとつの放送局はもう活動していて、新年からはイタリア政府も大型短波放送で一日に10分間発信します。ロンドン〔BBC放送〕でもチェコ語とスロヴァキア語の放送が分割されると聞きました。カナダの放送〔1945年に放送を開始したCBCインターナショナル・サービスをさす〕がスロヴァキアで聴かれることを願うなら、カナダ政府も同じ措置を取らなければなりません。スロヴァキア精神の放送を聞ける可能性があったら、国内ではチェコ語とスロヴァキア語のごたまぜには、だれもラジオのダイヤルをあわせないからです。チェコ人に関連したことはすべて、スロヴァキア人にとっては悪いのです。
チュレンが書いていたように、1949年初頭からローマ放送もスロヴァキア語番組を開始した。彼はこの放送に積極的に協力し、放送原稿を書いただけでなく定期的にラジオ講演も行った。同年4月26日付のロンドシ宛の手紙には、「今はたくさん仕事があります。毎週日曜にスロヴァキア国内向けのラジオ講演を持っていて、国内でたいへん良く聴かれています」と書かれている。
この時期のチュレンの第二の政治活動として知られているのは、ナショナリスト派亡命スロヴァキア人による新たな政治組織の結成である。1948年5月以降、カロル・シドルを中心とするグループとペテル・プリーダヴォクの在ロンドン・スロヴァキア民族評議会(1944年1月結成)グループのあいだで、新たな政治組織を結成することで合意が形成された。『カナダのスロヴァキア人』紙12月16日号の第一面に「在外スロヴァキア民族評議会設置さる」という記事が掲載されている。その記事は「愛と平安のクリスマスの祭日を機会に、アメリカとカナダのスロヴァキア人男女に、スロヴァキア民族の忠実な息子と娘たちに、連邦化されたヨーロッパにおけるスロヴァキア国をめざす仕事と闘いの中央指導部として、在外スロヴァキア民族評議会の設置が宣言されたことを告げる」内容で、末尾には「1948年クリスマス」の日付と(実際には12月中旬に公表されている)、同評議会の議長カロル・シドル、書記長ベテル・プリーダヴォクの署名が添えられている。組織結成に向けて中心となって動いたのはヨゼフ・キルシバウムであったが、「組織人」ではなかったチュレンも積極的にかかわり、副議長とイタリア支部長を兼任することになった。
こうした動向についてロンドシは1948年12月18日付の手紙のなかで、「『〔カナダの〕スロヴァキア人』紙にシドル氏とプリーダヴォク氏の記事〔前述の同紙12月16日号の記事をさす〕が掲載されて、スロヴァキアの事業が蘇りつつあることを確信させてくれます。・・・そちらでは組織活動が活発なのですから、あなたも忙しいことでしょう」と書き送った。いっぽうチュレンは1949年1月18日付の手紙で、ロンドシにこう報告している。 ---
私たちはスロヴァキア民族評議会の印象のもとで暮らしています。ヨーロッパのマスコミは評議会にひじょうに注目しています。スペインのマスコミは第一面の長文の記事のなかで、この歩みの意義を評価して、コミュニストに占領されているヨーロッパの全民族のあいだでもっとも重要な歩みと書いています。スイスのマスコミもこの組織にたいへん注目しています。これまでわがスロヴァキア問題のなかで、これほどの反響を引き起こしたものはなかったと言っていいでしょう。昨日アメリカの新聞記者たちが〔シドル〕公使を訪問しましたが、私も同席して、半日一緒に過ごして語りあいました。
1949年2月チュレンはシドルとキルシバウムとともに、フランス政府関係者と在外スロヴァキア民族評議会の活動に関連した問題を協議するために、パリに赴いた(1946年9月から1949年6月までのイタリア滞在中に、チュレンが国外に出たのは --- 寄宿先のヴァチカン市国を別にすれば --- この時だけのようである)。彼らは2月20日パリに着いたが、カロル・シドルとロンドシの往復書簡のファイルのなかには、2月21日付のパリからのエッフェル塔の絵はがきが残されている。「心からあなたに挨拶を送り、在外スロヴァキア民族評議会(SNRvZ)の協議を機会に、あなたのことを思い出しています」という文面がチュレンの筆跡で書かれ、コンシト〔コンシタンチーンの愛称〕・チュレン、カロル・シドル、ラツォ〔ラジスラウの愛称〕・ヤンコヴィチ、J・キルシバウムの四人の署名が添えられている。チュレンは2月28日ローマに戻った。3月29日付の彼の手紙にはこうある。 ---
いまはスロヴァキア民族評議会の仕事がたくさんあって、起こった出来事と私たちの旅行についてのニュースを書きました。あなたも情報を得ることができるように、一部を送らせます。でもこれは〔在外スロヴァキア民族評議会の〕内部情報で、新聞〔『カナダのスロヴァキア人』紙をさす〕のためではありません。