その後はチュレンにとって、出発に向けた慌ただしい日々が続いた。 ---
船の切符と鉄道切符はもう購入済みです。ほんらいは国際難民救済機関の輸送船で行くことになっていましたが、個人旅行にします。今月中は輸送船が出ず、来月のことはまだ未定だそうですから。そこでイタリアの汽船ヴルカニア号〔これはチュレンの勘違いで、翌12日の手紙にあるようにサトゥルニア号が正しい〕の切符を購入しましたが、この船は6月21日に当地からハリファックス〔カナダ大西洋岸の港町〕に直行します。ですから7月1日頃カナダに到着して、それから列車に直行してウィニペグに向けて出発します。・・・今はもうひたすら荷造りと、ローマの街との別離がはじまっています(6月11日付)。
いましがた汽船会社から電話があって、私の乗るサトゥルニア号はもともと通知された21日にではなく、18日に出航するそうです。つまりもう今週です。変更を予想していませんでしたから、急いで荷造りをしています(6月12日付)。
年代順に見て次の資料は、ローマ郊外の港町リド・ディ・オスティアから投函された6月15日付のロンドシ宛の絵はがきである(この絵はがきはシドルとロンドシの往復書簡のファイルに収録)。 --- 「ローマと別れながら、あなたにまもなくお目にかかれることを楽しみにしています」というチュレンの筆跡の短い文面の下には、コンシト・チュレン、A・チュレノヴァー(夫人)、エヴァ・チュレノヴァー(娘)のサインのほかに、カロル・シドル、アンゲラ・シドロヴァー(シドル夫人)、M・ドラーンスカ(詩人ヤーン・ドラーンスキの夫人)、ラジスラウ・プジシ、J・キルシバウムらのサインも読みとれる。
6月17日にこんどはナポリから、もう一通の絵はがきがロンドシ宛に送られている(同じくシドル・ファイルに収録)。 --- 「親しい友よ、海辺で友人たちと別れながら、全員が心の底からあなたのことを思っています。私たちはあなたにあいさつを送り、私はまもなくお目にかかれることを楽しみにしています」。コンシト・チュレン、A・チュレノヴァー、アンゲラ・シドロヴァー、カロル・シドル、フェルディナント・モンドク神父のサインがあり、「私たちはみな幸福で・・そして〔チュレンと別れなければならないので〕不幸です!」という英語の一文が、アルマンド・モラのサインとともに添えられている。ローマ在住の亡命スロヴァキア人グループの主だったメンバーとともに、モラ将軍もチュレンを見送りに来たのだろう。
ところが出航前にもう一波瀾が待ち受けていた。6月18日に予定されていた出航が延期されてしまったのである。チュレンはその間の事情を、6月22日付のナポリからの手紙でこう説明している。 ---
きっとそちらの新聞でも、イタリアからの情報として報じられたでしょうが、私が乗船する予定だったサトゥルニア号でストライキが発生しました。私はナポリにもう一週間も釘付けになっています。奔走の気苦労は人生で一度も味わったことがないほどです。だれにも確かなことがわかりません。そこで『あした来てください』と追い返されるのですが、あすになると『午後に来てください』、午後になると『またあした来てください』と言われます。でも幸いなことに私はユーモアをもって受けとめていて、憤慨することもありませんし罵りもしません。・・・きょうの約束ではソビエスキ〔17世紀末オスマン・トルコの包囲からウィーンを救ったポーランドの民族英雄〕号が私たちを運ぶとか。・・・
本日の情報によると、この船は6月28日に出航するそうです。これまでの経験からして、慎重に受けとめておきましょう。
いくども苦い経験を味わってきたチュレンは懐疑的だったが、6月28日出航の話はほんとうだった。彼は同日付のナポリからの手紙で、「ほんとうに今日こそヨーロッパに別れを告げて、私を乗せたソビエスキ号がとうとう動きだす様子です。ですからカナダに着くのは7月14日頃になるでしょう」と書いている。なおチュレンは「単身赴任」の身で、妻と娘は一足遅れて7月にイタリアを出発する手はずになっていた。
チュレンの庇護者であったシドルも、ヴァチカンからの6月29日付のロンドシ宛の手紙(同じくシドル・ファイルに収録)のなかで、「6月28日コンシト・チュレンが汽船ソビエスキ号でイタリアを離れたことで、私たちはみなほんとうに幸せです」と書いている。注目すべきことに同じ手紙のなかで、シドルは続けてこう書いている。 ---
あなたがコンシタンチーン・チュレンをどうなさるつもりかわかりませんが、私の考えを言わせていただければ、彼にとってベストなのは『カナダのスロヴァキア人』紙の編集者〔シチェファン〕フレハのところに行くことです。フレハと彼は『カナダのスロヴァキア人』紙を、在米スロヴァキア人も持っていないような〔良質な〕新聞にすることができるでしょう。この件については編集者フレハにも手紙を出しましたが、あなたがご自分の友人たちと、チュレンを補助編集者として採用する提案を提出して推薦し、カナダ・スロヴァキア人連盟のしかるべき委員会で可決させていただくように、心からお願いします。
このシドルの提案が彼自身の発意によるものなのか、それともチュレンの依頼を受けて書かれたものなのか即断はできないが、いずれにせよ、在外スロヴァキア民族評議会議長としてシドルが当時享受していた「威信」から判断すると、ほとんど「指令」に近い性格を持っていたように思われる。
チュレンを乗せてナポリを出航したソビエスキ号は、6月29日ジェノア、30日フランスのカンヌ、7月2日イギリス領ジブラルタルに寄港した。チュレンは同日付で、ジブラルタルからロンドシ宛に「ヨーロッパからの最後の手紙」を投函している。 ---
海員ストライキの結果、私の旅は丸10日も延期されました。・・・船上生活はまったく快適です。カナダに向かうイタリア人移民がたくさん乗っています。何人かのユダヤ人もいますが、彼らの目的地はアメリカ合衆国です。ここではいろいろな言葉が聞かれます。でも大部分の人たちは、国内に留まるよりも外国に行ったほうが暮らしが楽になるだろうという希望を持っています。/・・・/きょうは海がすこし荒れ模様なので、大部分の船客は青息吐息で〔ゲロを吐いて〕魚を養っています。私はまだ一度も海の上で気分が悪くなったことがありません。ぎゃくに海上にいるときほど気分の良いことはありません。/・・・/船上での時間は、英語を勉強することで活用しています。毎日数時間は勉強しています。いずれカナダで聞いたり話したりする機会があれば、かなり早く上達すると期待していますし、しかるべき意思疎通は短期間で習得できると信じています。読むことなら話はべつで、本も新聞も読むのはまったく楽です。
これはヨーロッパの岸辺からあなた宛に送る最後の手紙です。私たちはたくさんの手紙を取り交わしました。私はしばしばあなたを気の毒に思い、驚嘆もしました。後になってわかったのですが、ほかの人たちもあなたからの分厚い手紙の束を持っていたからです。この人はいつこれだけの時間を取れたのだろうと内心感嘆しました。手間のかかるのが一人減ったので、きっとお喜びでしょう。私はつねにあなたの闘いを思い出すことでしょうし、なんとかして記録に残したいと考えています」
ちなみにこの手紙も、これまでと同じくスロヴァキア語の補助記号の入ったタイプライターで打たれている。チュレンは愛用のタイプライターを船室に持ちこんだのだろう。
ソビエスキ号は一週間で順調に大西洋を横断し、7月10日カナダのハリファックス港に入港した。チュレンは同日付でロンドシに「無事ハリファックスニ着イタ日曜日頃ニ行ク」という英文の電報を打った。電文の後半は「7月17日(日曜)頃に列車でウィニペグに到着する」という意味である。ハリファックスからモントリオール行きの列車の車中で書かれた7月11日付の手紙には、「〔ハリファックス〕港では若いスロヴァキア人ヤネガが私を出迎えてくれましたが、彼を港に寄越したのはクンダ氏だそうです。〔ヤネガは〕私の荷物を運ぶのも手伝ってくれて、雑談していっしょに食事しました。彼の好意にはとても助けられました」と書かれている。
チュレンは7月11日夕刻モントリオールに到着した。『カナダのスロヴァキア人』紙7月21日号は、「作家K・チュレン、カナダに到着/西部への旅の途中でモントリオールとトロントに立ち寄る」という見出しの記事で、次のように報じている。 ---
月曜日夕刻(7月11日)に、第一線のスロヴァキア作家の一人、政治家で評論家で民族活動家、スロヴァキアの真実〔「スロヴァキア独立国家理念」を暗示する表現〕の非妥協的な擁護者であるコンシタンチーン・チュレンが、モントリオールに到着した。ウィンザー駅では、モントリオール在住のスロヴァキア民族運動の第一線の活動家たちと、亡命スロヴァキア人グループが彼を出迎えた。火曜日〔7月12日〕彼を歓迎してカナダ・スロヴァキア人連盟の民族会館でささやかな祝宴が催されたが、それにはカナダ・スロヴァキア人連盟とカトリック同盟の男女の支部役員たちと、そのほかの活動家たちが参加した。モントリオール在住スロヴァキア人を代表して、組織の議長たちが歓迎の辞を述べた。あいさつのなかでチュレン氏は協力を約束し、すべての亡命スロヴァキア人はカナダ在住スロヴァキア人の民族活動に貢献すべきだと表明した。
チュレンは7月14日モントリオールを立ち、トロントに滞在してから16日朝ウィニペグに向けて出発した。トロントからウィニペグに出発するとき、彼は再度ロンドシに「カナダ太平洋鉄道(CPR)デ日曜日ノ標準時午前9時ニ着ク」と電報を送った。そして予定どおり翌17日朝チュレンはウィニペグに到着したが、駅に出迎えたロンドシとの出会いはさぞ感激的なものだったことだろう。
こうしてチュレンは約束どおり、7月25日から28日までウィニペグで開かれたカナダ・スロヴァキア人連盟第8回大会に出席することができた。この大会でチュレンはかねてからの希望どおり、『カナダのスロヴァキア人』紙の補助編集者に選出されたが、これはチュレン本人だけでなく、在外スロヴァキア民族評議会議長シドルからの「指令」を受けたロンドシの「根回し」の結果であろう。大会では、同評議会を「隷属化された国内のスロヴァキア民族を代弁する正当な代表と認める」ことも、同時に決議されている。
1949年8月はじめチュレンはウィニペグから、『カナダのスロヴァキア人』紙編集部があるモントリオールに戻った。一足遅れてニューヨーク経由でカナダに入国した妻と娘も、8月11日モントリオールに到着した。住居も確保し、チュレンは8月中旬から新しい職場でふたたびジャーナリストとして働きはじめた。2年という予想外に長い年月を要したとはいえ、「安全な場所にたどり着いて、新しい生活をはじめ、安全に働き暮らしたい」(1947年6月6日付の手紙)というチュレンの所期の目的は、ひとまず果たされたと言うことができるだろう。